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2021年7月15日木曜日

平泉(2)ー夢の跡


 (北上川@高館跡から)


(義経堂@高館跡) 


 まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡

 卯の花に兼房見ゆる白毛かな  曽良

北上川、わかりにくいけれど、南部とは岩手県南部地方のことで、写真の左手、北のほうです。そして右手、南のほうへ流れ、モネの登米をへて、石の巻湾に注ぎます。

写真のちょっと左手、支流の衣川が北上川に注いでいます。和泉が城の和泉は、塩竈神社の段ででてきた和泉三郎のことです。最後まで、義経に忠誠を尽くしました。対する泰衡は、三代目秀衡亡きあと、頼朝の圧力に屈して義経を攻め殺してしまいました。

衣川は歌枕です。

 ただちともたのまざらなん身にちかき 衣の関もありといふなり よみ人しらず

衣川の関という言葉は、衣服でへだてていることから、すぐ身近にいながらも男女が関係を結ばないことのたとえとして用いられるようになりました。

これを踏まえて、もう一度、芭蕉の文章を読んでみてください。衣川は、義経に忠実だった和泉三郎の城を巡りて、義経の住まいであった高館の下で北上川に合流していた。これに対し、義経を責め殺した泰衡らの旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えた(どっち向いてんだよ!)。

義経は泰衡軍に攻囲されて、高館で自害して果てました。享年31歳、なんと落合くんと同い歳です。曽良の句にでてくる兼房も義経の義臣。もうだいぶ年で、白毛がトレードマークです。義経の自害を見届け、高館に火を放ち、最後の奮戦をして自害しました。

兼房がなぜ高館に火を放ったのか、なぜその事実が義経記などに特筆されているのでしょうか。敵方の大将や、強い武将はちゃんと死にましたよと世に知らしめることが重要だったんですね。このため世論が納得するよう、京都の六条河原に首をさらしたりしました。

義経は死んでいない、大陸にわたってチンギスハンになったなどという伝説が生まれたのは、兼房が高館を焼いたため義経の死がはっきりしなかったためだったのかもしれません。

芭蕉は触れていませんが、もちろん西行も500年前にここを訪れています。三首。

 とりわきて心も凍みて冴えぞわたる 衣川見にきたる今日しも

 涙をば衣川にぞ流しつる ふるき都をおもひ出でつつ

 衣川みぎはによりてたつ波は きしの松が根をあらふなりけり

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」が杜甫の「春望」から採られていることは、「はなれて奏でる(5)」で述べました。すごくないですか。中国古代の大詩人の詩から、西行の旅と歌、その500年後の芭蕉の旅と句を経て、現代まで。北上川のように、とうとうと流れています。

2021年5月27日木曜日

はなれて奏でる(5)


  「おくのほそ道」の有名な冒頭

 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。

よく言われるように、李白の詩「春夜 従弟の桃花園に宴するの序」を下敷きにしています。  

 夫れ

 天地は 万物の逆旅なり

 光陰は 百代の過客なり

ここから芭蕉が旅へ誘うのに対し、李白はやっぱり宴に誘います。嗜好の違いですからやむを得ません。

 「おくのほそ道」の末の松山の段。

 末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松の間々皆墓原にて、翼を交はし枝を連ぬる契りの木も、つひにはかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竃の浦に入相の鐘を聞く。

 これは白居易の「長恨歌」から

 天に在りては願わくは比翼の鳥となり

 地に在りては願わくは連理の枝とならん

玄宗と楊貴妃がモデルで、永遠の愛を誓う言葉。比翼連理という四字熟語になっています。ただし、いまの若い人に言っても、怪訝な顔をされるでしょう。

 これもまた有名な平泉の段。

 さても、義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 これは杜甫の「春望」から。

 国破れて山河在り

 城春にして草木深し

 時に感じては花にも涙を濺ぎ・・・

 むすびは、松島とならぶ絶景といわれた象潟の段。

 俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。

 象潟や雨に西施がねぶの花

西施は中国絶世の美女の名。李白が好んで詩の題材としました。

 ここでは再度、先に紹介した白居易の「長恨歌」から。

 太液の芙蓉 未央の栁

 芙蓉の面の如く 栁は眉の如し

 此に対して如何ぞ涙の垂れざらん

 また蘇軾の「湖上に飲す 初めは晴れ後に雨ふる」から。

  山色空濛として 雨も亦奇なり

  西湖を把って西子に比せんと欲すれば

  淡粧濃抹総べて相宜し

 芭蕉の頭のなかでは、時空をへだてた李白や杜甫とも詩のハーモニーが奏でられていたことでしょう。が、漢詩の素養に乏しいわれわれの頭のなかで、芭蕉ほどにはハーモニーを奏でていないのではないかと心配です。

2021年4月17日土曜日

黒羽の桃翠





黒羽に戻ります。城代家老・浄法寺さんの俳号は桃雪、弟は桃翠。兄弟で俳句をたしなみ、芭蕉一行をもてなしました。

かれらの俳号は芭蕉の弟子だからでしょう。芭蕉は芭蕉と名乗る前は桃青と号していましたから。

芭蕉は自己の句風、すなわち蕉風をより高めるため、先輩歌人や禅僧に謙虚に教えを請うていました。それのみか、中国の詩人にもあやかろうとしたのが桃青という号です。

誰にあやかろうとしたのかわかりますか。中国の大先人、大詩人といえば、李白と杜甫です。どちらでしょう(笑)。

はい、李白ですね。李はスモモ、李白というのは白いスモモという名前です。芭蕉は李白にあやかって、青い桃と号したわけです。

おくのほそ道の冒頭「月日は百代の過客にして」とか、平泉の段「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」とか、李白・杜甫に対するリスペクトは明らかです。

前者は、李白の「春夜桃李の園に宴するの序」の冒頭、「夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」から。後者は杜甫の「春望」から。

では、杜甫ではなく、李白の名前にあやかったのはぜでしょう?杜甫より李白の詩のほうが好きだった可能性もありますが、李白にあやかったほうが季語が入るという理由ではないでしょうか(笑)。

桃翠は実際には翠桃と名乗っていたようです。おくのほそ道の本文の記載が桃翠となっているのは誤記であるとの文献もあります。しかし、そうとはかぎらないように思います。芭蕉は翠桃より桃翠のほうがよい、あるいは、すくなくとも語呂がよいと考えた可能性があります。

翠桃は、芭蕉から桃翠と俳号を与えられたにもかかわらず、自分でこれをひっくりかえし翠桃と名乗っていた可能性だってあります。翠桃がそうした理由は黒羽と関係しているかもしれません。黒い羽の翠の桃になるので、かえって座りがよいので。

また緑ではなく翠というのも意味深。翠はカワセミとも読み、混じりけのない綺麗な羽をもつ鳥が由来です。黒い羽と平仄があうと思いませんか。

あるいは、ただ単に、すいとーとと思ったのかもしれません(なぜ、そこで博多弁?)。