「おくのほそ道」の有名な冒頭
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。
よく言われるように、李白の詩「春夜 従弟の桃花園に宴するの序」を下敷きにしています。
夫れ
天地は 万物の逆旅なり
光陰は 百代の過客なり
ここから芭蕉が旅へ誘うのに対し、李白はやっぱり宴に誘います。嗜好の違いですからやむを得ません。
「おくのほそ道」の末の松山の段。
末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松の間々皆墓原にて、翼を交はし枝を連ぬる契りの木も、つひにはかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竃の浦に入相の鐘を聞く。
これは白居易の「長恨歌」から
天に在りては願わくは比翼の鳥となり
地に在りては願わくは連理の枝とならん
玄宗と楊貴妃がモデルで、永遠の愛を誓う言葉。比翼連理という四字熟語になっています。ただし、いまの若い人に言っても、怪訝な顔をされるでしょう。
これもまた有名な平泉の段。
さても、義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。
これは杜甫の「春望」から。
国破れて山河在り
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺ぎ・・・
むすびは、松島とならぶ絶景といわれた象潟の段。
俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。
象潟や雨に西施がねぶの花
西施は中国絶世の美女の名。李白が好んで詩の題材としました。
ここでは再度、先に紹介した白居易の「長恨歌」から。
太液の芙蓉 未央の栁
芙蓉の面の如く 栁は眉の如し
此に対して如何ぞ涙の垂れざらん
また蘇軾の「湖上に飲す 初めは晴れ後に雨ふる」から。
山色空濛として 雨も亦奇なり
西湖を把って西子に比せんと欲すれば
淡粧濃抹総べて相宜し
芭蕉の頭のなかでは、時空をへだてた李白や杜甫とも詩のハーモニーが奏でられていたことでしょう。が、漢詩の素養に乏しいわれわれの頭のなかで、芭蕉ほどにはハーモニーを奏でていないのではないかと心配です。
0 件のコメント:
コメントを投稿