2021年5月11日火曜日

浅香山

 

時間があれば、裏磐梯を観光していきたいところですが、師匠に叱られてはいけませんので、いそいで戻り、芭蕉一行に追いつきましょう。芭蕉はどのへんでしたでしょうか。

等窮が宅を出でて五里ばかり、檜皮の宿を離れて、浅香山あり。そうそう、ここでした。浅香山は檜皮(ひはだ)ならぬ、日和田(ひわだ)駅で降ります。

浅香山は有名な歌枕。歌は万葉集のこれ。

 浅香山影さへ見ゆる山の井の 浅き心をわが思はなくに
 (浅香山の影さえ見えてしまう山の井のような、浅い心を私はもっていません)

この歌には注がつけられていて、言い伝え。葛城王が陸奥国に派遣されたとき、国司の接待が怠慢だったので、王は怒りの色を面にあらわしました。そこで前は采女だった雅たる娘が水瓶で王の膝を撃ちながらこの歌を詠みました。すると王は機嫌をなおして喜びましたとさ。葛城王は、日本史の教科書に登場する橘諸兄のことです。

古今集の仮名序に「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」とありますが、猛き権力者の機嫌を和らげたのは歌でした(もちろん歌の魅力だけでなく、采女の魅力もおおきく作用したことでしょう)。

そのせいか、古今集の仮名序に、この歌は、歌の父母の様にてぞ、手習ふ人の初めにもしけるとあります。手習のお手本だったのですね。また紫香楽宮跡の木簡にこの歌が記されていたという記事も、記憶にあたらしいところです。

ですが、芭蕉はここで橘諸兄にも采女にも触れず、藤原実方を召喚しています。このシリーズの最初のほう、室の八島で覚えていてくださいと言った例の貴公子です。

福岡では左遷された悲劇の人として菅原道真が圧倒的な知名度と人気です。東のほうではどうでしょう。すくなくとも芭蕉の頭のなかでは、藤原実方が圧倒的な人気です。みなさんも小倉百人一首のこの歌はご存じでしょう。

 かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを

日本百名山の伊吹山がでてくるので、ぼくも大好きな歌です。このような歌が詠める実方は女子によくもてたようで、あの清少納言とも交際していたと伝えられています。

ところが実方は和歌について藤原行成と口論になり、怒って行成の冠を投げ捨ててしまいました。運の悪いことに、一条天皇がこれを目撃していてその怒りをかい、「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたのだそうです。

一条天皇といえば、清少納言がつかえた中宮定子と、紫式部がつかえた中宮彰子の夫君。「歌枕をみてまいれ」とは、さすが左遷命令も雅です。

陸奥では節句に人々が菖蒲を葺かないので、実方がなぜかと問うたところ、陸奥には菖蒲が生えておらず、そのような習慣もないとの返事でした。そこで実方は浅香沼には花かつみがあるので、菖蒲の代わりにそれを葺くよう命じたのだそうです。彼がそう考えた根拠も古今集掲載のこの歌です。

 みちのくの浅香の沼の花かつみ かつ見る人に恋ひやわたらむ

こうして芭蕉は、いづれの草を花がつみとはいふとぞと、人々に尋ねはべれども、さらに知る人なし。沼を尋ね、人に問ひ、「かつみかつみ」と尋ね歩きて、日は山の端にかかりぬ・・・。

ここで芭蕉はガッカリしました。あれだけ(和歌の世界では)有名な浅香沼の花がつみを地元の人は誰も知らないというのです。いまでいえば、小便小僧、人魚姫、マーライオンを見たときの海外旅行者の気持ちでしょうか。あるいは、「フランダースの犬」でネロがどうしても見たかったルーベンスの絵が地元ではいまひとつ人気がないことを知った旅人の気持ちでしょうか。

芭蕉はこのあとも歌枕を訪ねるたびにガッカリ体験に遭遇します。なぜ、こうなのだろう、どう考えればよいのだろう・・・。ご心配なく、芭蕉はここから不易流行の考えにたどりつくことになります。さすが考えが浅かないですね。

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