2021年5月14日金曜日

信夫の里・しのぶもじ摺りの石(1)



・・福島に宿る。明くれば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。遙か山陰の小里に・・。

福島駅から東に車で20分ほど行くと、遙か山陰に信夫(しのぶ)の里があります。そこにしのぶもぢ摺り石があります。ここも有名な歌枕です。

小倉百人一首に、河原の左大臣の歌が採られています。

 陸奥のしのぶもぢ摺り誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに

河原左大臣は、源融。光源氏のモデルといわれています。紫式部をかわいがった藤原道長がモデルの筆頭ですが、嵯峨天皇の子でありながら臣籍降下し源氏となったこと、彼が建てた河原院が光源氏の邸宅・六条院のモデルと思われることなどが根拠です。

河原院(東六条院)はいまの渉成園(枳穀邸)。東本願寺と鴨川の間にあります。名前からして、昔は鴨川までおよぶ広大な敷地だったのでしょう。

融はここに陸奥の塩竃をモデルとして庭をつくり、わざわざ難波の浦から潮水を運ばせて塩を焼かせたといいます。庭造りの好きなおじさんはいまもいっぱいいますが、その先駆者ですね。河原院は河原左大臣という呼称の由来でもあります。

陸奥の塩竃はあとで芭蕉一行も訪れます。われわれものちほど訪れましょう。

いまの渉成園(枳穀邸)には塩竃がなかったように思いますが、京都の南西にある、在原業平ゆかりの十輪寺で、塩竃を見たことがあります(写真)。

融は河原院がだいすきだったようで、死後も亡霊となって、後の所有者である宇多院のまえにあらわれたという話が宇治拾遺物語にあります。

宇多院「あれは誰そ」
融「ここの主に候ふ翁なり」
院「融の大臣か」
融「しかに候ふ」
院「さはなんぞ」
融「家なれば住み候ふに、おはしますがかたじけなく、所狭く候なり。いかが仕るべからん」
院「それはいといと異様の事なり。故大臣の子孫の、我に取らせたれば、住むにこそあれ。わが押し取りてゐたらばこそあらめ、礼も知らず、いかにかくは恨むるぞ」
と高やかに仰せられければ、かい消つやうに失せぬ。

建物売買の際の告知事項として、その建物内部で人が死亡したかどうかがあります。そのような事情があった場合、心理的瑕疵となり、買主に告知しなければなりません。河原院も融の亡霊が悪さをしていたのであれば、心理的瑕疵の可能性ありだったでしょうね。

また融と河原院を題材にした謡曲『融』もあります。融は本作ではワキ僧を悩ませることもなく、われわれともども美の世界にいざなってくれます。世阿弥作、本来の曲名は『塩釜』。

融は陸奥の塩竃にならって庭造りをするほど、陸奥がだいすきだったようです。ただし、彼の官暦にはたしかに陸奥出羽按察使があるのですが、実際には赴任しなかったのではないでしょうか。

実際に赴任したかどうかはともかく、彼の陸奥に対する愛はひとかたならず、河原院をつくったほか、前記しのぶもぢ摺りの歌を残したというわけです。ようやく歌の話までたどりつきましたが、執務時間となったのでその解説は次回。

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