さて前提となる知識の解説がようやく終わったので、おくのほそ道の本文に戻ります。
「信夫の里に行く。遙か山陰の小里に、石半ば埋もれてあり。」
あこがれの石はなんとも無残な状態にありました。歌枕のシンボルである、しのぶもぢ摺りの石はなぜ、なかば地中に埋もれていたのでしょうか。その答えは里の子どもが教えてくれました。
「里のわらべの来たりて教へける、『昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落とせば、石の面、下ざまに伏したり』という。」
虎女伝説を知った男女が遠くの愛する人に会いたいあまり、麦をちぎって畑を荒らして、石に麦を擦りつけるもんだから、畑の主が怒って石を谷に突き落としたというのです。その結果、芭蕉が訪れたときには、石は面を下にして半分埋もれてしまっていました。
それまで芭蕉の頭のなかでは、河原左大臣の歌、虎女伝説が理想的に輝いていました。ところが、現実ではこのざま。この理想と現実の落差に、芭蕉のガッカリは相当のものでした。ここは歌枕における3大ガッカリの1つと言っていいでしょう。
後の「壺の碑」の段で、このような事態をつぎのように述べています。
「昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代われば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬことのみ」
歌枕について芭蕉が抱いていた理想が「流行」のなかで、つぎつぎと打ち砕かれていったわけです。ああ~時の流れのなかで~。そうした「流行」の厳しさにぶちあたればあたるほど、芭蕉はなんとかして芸術における、人生における「不易」を救い出さなければならないと考えたと思います。
芭蕉は現地でそうとうガッカリしたにもかかわらず、本文では「さもあるべきことにや。」とおだやかな感想になっています。なぜしょう。
おくのほそ道の本文はなんども推敲されています。現地では「遠路はるばるここまで来たのに、木戸銭返せ~」と怒り心頭にたっしました。が、不易流行の考えが深まるにつれ、怒りもおさまり、ま、流行とはそういうことじゃろねという感想になったわけです。
われわれも現地でこの石を見て、感動の嵐というわけにはまいりません。わたくしの写真の腕が悪いわけではなく、しのぶもぢ摺り石だけを見て感動するのは至難のわざといわざるをえないのです。
じゃ、どうすればよいのか。それはこのブログをよく読んで、「そうかそうか、さすが芭蕉!」と理解したうえで、現地を訪れてくだされ(宣言明けに)。
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