(川合玉堂「早乙女」山種美術館@講談社日本大歳時記)
契約書はともかく、「鬼滅の聖地」方面に向かいます。途中、太宰府天満宮参道の交差点を過ぎると、連歌屋という町があります。
なぜ連歌屋なのか。江戸時代には連歌の会所があったそうです。碁会所や雀荘はよく見かけますが、連歌の会所というのはいまでは見かけませんね。
俳句は五・七・五の17文字を定型とする詩です。これに七・七をつけると短歌になります。数人の人が一座となり、これを繋げていくと連歌になります。尻取り遊びのように。
むかしは百韻といって100句繋げて2,3日かかっていたそうですが、芭蕉のころは歌仙といって36句が主流だったようです。36句を歌仙と呼ぶのは、平安時代に藤原公任が和歌の名人を36人選んだことが由来です。
このうち最初の五・七・五、つまり発句だけを楽しむようになったのが、いまの俳句です。だんだん時間の流れが速くなっていったんですね。
うちの事務所の所長弁護士は連歌屋に住んでいます。そのせいか、さいきん俳句にはまっているようです。門前の小僧といいますが、連歌屋に住むと俳句を詠みたくなるのでしょうか・・・。
おくのほそ道の旅の目的は複数あり、お弟子さんたちと連歌の句会を開くこともその一つでした。須賀川には等窮という先輩がいて、さっそく句会が開かれました。
等窮は「白河の関いかに越えつるや」と問いました。芭蕉が「長途の苦しみ、身心疲れ、かつは風景に魂奪はれ、懐旧に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。」と弁解しながら、「むげに越えんもさすがに」として披露したのは次の句。
風流の初めや奥の田植ゑ歌
この句を発句として、次の人が七・七と脇の句をつけ、さらに別の人が五・七・五と第三句と続け、あっというまに連句三巻になりました。さすが手練れの集まりです。
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