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2021年5月7日金曜日

須賀川(3) 世の人の見付けぬ花


(天神に咲いている橡の花)


(ハイデルベルクで咲いていたマロニエの花)

(栗の花)

(栗斎宅跡の句碑)


(宝満山登山道の句碑)

ちくし句会には、あの連歌屋の住人も参加しているとか。同行トミーは苦吟しているようなので、ひとり先に進みます。

須賀川の宿のかたはらに、大きなる栗の木陰を頼みて、世をいとふ僧がありました。その名も栗斎さんといい、等窮さんの友人です。

街中で生活しながら世を厭い自由に生きる、こういう生き方に芭蕉はあこがれています。いまでいう清貧の思想や断捨離の先駆者です。お金や物、人付きあいと距離をおいて、精神的な自由を獲得しようとする生活です。

ここで芭蕉は尊敬する旅の先輩歌人、西行をふたたび召喚します。

 山深み岩にしただる水溜めむ かつがつ落つる橡拾ふほど

トチの実がかつがつと落ちてくる、その実を拾う間に岩にしたたる水を溜めよう、その水は山が深いのでしたたってくるのだ。-おもしろくてしかも心ことに深き歌です(後鳥羽院)。

橡(トチ)といわれるとピンとこないかもしれませんが、いま天神にいくとたくさん咲いています。栃木県という県名までありますから、昔はとても馴染みのある木だったのでしょう。ただし、いま天神に咲いているのは西洋トチノキで、紅花です。

西洋トチノキというとピンとこないかもしれません、いわゆるマロニエの木です。マロニエというとパリのシャンゼリゼ通りの街路樹が有名、でも探しだせなかったのでハイデルベルクのものを貼り付けておきます。

マロニエというぐらいだから、マロン(栗)に似た実がなります。不作の年にこれを食べたという説もあれば食べられないという説もあります。すくなくとも日本のトチの実は栃餅にして食べています。西行も食べるために拾ったのでしょう。

栗といふ文字は、西の木と書きて、西方浄土に便りありと、芭蕉はものに書き付けました。芭蕉が書いたからには駄洒落ではありません。

漢字を分解して楽しむやり方は芭蕉の発見ではありません。みなさんご存知の百人一首にもこんな歌があります。

 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ

                             文屋康秀

嵐という文字は山に風と書くからです。百人一首に歌がとられているからには、やはり駄洒落ではありません。

さらにさかのぼって行基菩薩も、西方浄土に便りありと信じて、杖にも柱にも栗の木を用ゐたまふとかや。行基さんは社会運動の先駆者です。国が僧に対し民衆への布教を禁止していた時代に、禁を破って仏教を説き、社会事業を各地で行いました。ついには、その功績が認められ、聖武天皇から大仏造立の責任者に任命されました。もはや爪のアカは残っていないでしょうから、それを煎じて飲むことはできませんが、威徳を慕って栗の木の杖を使うことはできそうです(インターネット通販で売っています)。

そして一句。

 世の人の見付けぬ花や軒の栗

お金や世俗のことに心を奪われている世の人々には栗の花の価値は分からない。栗斎のように、世間の喧噪を離れ、心の自由を獲得する境地に達したいものだ。

この句碑が須賀川の栗斎宅跡にあるのはわかります。しかしなんと、太宰府は宝満山の登山道の脇にもこの句の碑があります(中宮から100メートルくだったところ)。なぜでしょう。芭蕉は九州には来ていません(忍者だったという説もあるので、お忍びできたのかもしれませんが)。

前に書いたとおり、江戸時代、宝満山中では多くの行者が民衆を救うべく修行をしていました。その人たちが、自分たちの修行は世の人の知るところではないものの、志高く修行をつづけようという趣旨で、建立したのではないでしょうか。

われわれも栗斎、行基、宝満山中の修行者ら諸先輩に見習いたいものです。

2021年5月6日木曜日

須賀川(2) 句会での交流

 

(川合玉堂「早乙女」山種美術館@講談社日本大歳時記)

契約書はともかく、「鬼滅の聖地」方面に向かいます。途中、太宰府天満宮参道の交差点を過ぎると、連歌屋という町があります。

なぜ連歌屋なのか。江戸時代には連歌の会所があったそうです。碁会所や雀荘はよく見かけますが、連歌の会所というのはいまでは見かけませんね。

俳句は五・七・五の17文字を定型とする詩です。これに七・七をつけると短歌になります。数人の人が一座となり、これを繋げていくと連歌になります。尻取り遊びのように。

むかしは百韻といって100句繋げて2,3日かかっていたそうですが、芭蕉のころは歌仙といって36句が主流だったようです。36句を歌仙と呼ぶのは、平安時代に藤原公任が和歌の名人を36人選んだことが由来です。

このうち最初の五・七・五、つまり発句だけを楽しむようになったのが、いまの俳句です。だんだん時間の流れが速くなっていったんですね。

うちの事務所の所長弁護士は連歌屋に住んでいます。そのせいか、さいきん俳句にはまっているようです。門前の小僧といいますが、連歌屋に住むと俳句を詠みたくなるのでしょうか・・・。

おくのほそ道の旅の目的は複数あり、お弟子さんたちと連歌の句会を開くこともその一つでした。須賀川には等窮という先輩がいて、さっそく句会が開かれました。

等窮は「白河の関いかに越えつるや」と問いました。芭蕉が「長途の苦しみ、身心疲れ、かつは風景に魂奪はれ、懐旧に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。」と弁解しながら、「むげに越えんもさすがに」として披露したのは次の句。

 風流の初めや奥の田植ゑ歌

この句を発句として、次の人が七・七と脇の句をつけ、さらに別の人が五・七・五と第三句と続け、あっというまに連句三巻になりました。さすが手練れの集まりです。

2021年4月30日金曜日

須賀川(1) 宇宙との交流

 

異世界みちのくに入り、芭蕉一行は須賀川の駅(宿場)に到着しました。300年後に私も芭蕉の足跡を慕い、東北本線・須賀川駅(ステーション)に到着しました。

街中に入るや、宇宙怪獣エレキングがあらわれました。キャー逃げろー。そこへウルトラセブンがあらわれ、怪獣を退治してくれました。パチパチ。

みちのくが異世界、異宇宙といっても、これは行き過ぎでしょう。ほんとうのことでしょうか。そういぶかりながら科学特捜隊がふきんを捜査していると、いくつかの事実が判明しました。

なんと須賀川は、ウルトラ一族が住んでいる「M78星雲 光の国」と姉妹都市なのだそうです。なぜそうなのか。どうも須賀川は円谷英二氏のふるさとらしい。

さらに須賀川には「すかがわ市M78光の町」という異次元の町が存在し、住民登録でき、住民票も発行されるらしい。あなたもぜひ登録してください。須賀川駅は宇宙ステーションでもあったのです。

芭蕉の風雅を求めてきた旅人にはびっくりな世界、芭蕉が求めた宇宙とは別の宇宙ですが、これもまた不易流行でしょう。

2021年4月21日水曜日

役行者・修験道

(役行者@愛嶽山、足駄を履いている)


(宝満山峰入り) 


(前鬼・後鬼@洞川温泉・大峰山)

大宰府の鬼門には宝満山があります。いまは神道の竃門神社だけがありますが、中世には370もの仏教の坊舎があったといい、近世には修験道も盛んになりました。7合目のあたりにある中宮跡などはその名残りです。

修験道は、山々を歩いて厳しい修行をおこない、悟りをえて験力により人々を救済する神仏習合系の宗教です。修験者のことを行者ともいいます。

残念ながら明治初期、政府の神仏分離政策(いまなら政教分離原則違反で違憲です。)により廃れてしまいました。が、さいきんは五月の峰入りなど復活してきています。

宝満山の登山道から南にはずれてしばらく登ると愛嶽山があります。その山頂にはいまも役行者が祀られています。

役行者(役小角)は修験道の開祖です。葛城山で山岳修行をおこない、熊野山や大峰山で修行を重ね、吉野山の金峯山で金剛蔵王大権現を感得しました。呪術をもちい、前鬼・後鬼という夫婦の鬼を使役していました。

あるとき、葛城山と金峯山とのあいだに石橋を架けようとして、葛城山の神である一言主(ひとことぬし)に命じました。しかし、神は自らの醜い姿を気にして夜間しか働きませんでした。そのため、行者は怒り、神を呪法と蔦葛で縛ってしまいました(能『葛城』)。

芭蕉は、中国の李白・杜甫、先輩歌人、先輩旅人、禅の先達につづき、役行者にもあやかろうとしました。行者は足が達者でした。山々を歩き回って修行したからです。みちのくへの門出にあたり、行者にも参拝しています。いわく。

修験光明寺といふあり。そこに招かれて、行者堂を拝す。

 夏山に足駄を拝む首途かな
 (なつやまにあしだをおがむかどでかな)

芭蕉はすがれるものは藁にもすがりたいという気持ちだったのでしょう。みちのくの旅は、それほど苦難な道のりが予想されたのでした。