(役行者@愛嶽山、足駄を履いている)
(宝満山峰入り)
(前鬼・後鬼@洞川温泉・大峰山)
大宰府の鬼門には宝満山があります。いまは神道の竃門神社だけがありますが、中世には370もの仏教の坊舎があったといい、近世には修験道も盛んになりました。7合目のあたりにある中宮跡などはその名残りです。
修験道は、山々を歩いて厳しい修行をおこない、悟りをえて験力により人々を救済する神仏習合系の宗教です。修験者のことを行者ともいいます。
残念ながら明治初期、政府の神仏分離政策(いまなら政教分離原則違反で違憲です。)により廃れてしまいました。が、さいきんは五月の峰入りなど復活してきています。
宝満山の登山道から南にはずれてしばらく登ると愛嶽山があります。その山頂にはいまも役行者が祀られています。
役行者(役小角)は修験道の開祖です。葛城山で山岳修行をおこない、熊野山や大峰山で修行を重ね、吉野山の金峯山で金剛蔵王大権現を感得しました。呪術をもちい、前鬼・後鬼という夫婦の鬼を使役していました。
あるとき、葛城山と金峯山とのあいだに石橋を架けようとして、葛城山の神である一言主(ひとことぬし)に命じました。しかし、神は自らの醜い姿を気にして夜間しか働きませんでした。そのため、行者は怒り、神を呪法と蔦葛で縛ってしまいました(能『葛城』)。
芭蕉は、中国の李白・杜甫、先輩歌人、先輩旅人、禅の先達につづき、役行者にもあやかろうとしました。行者は足が達者でした。山々を歩き回って修行したからです。みちのくへの門出にあたり、行者にも参拝しています。いわく。
修験光明寺といふあり。そこに招かれて、行者堂を拝す。
夏山に足駄を拝む首途かな
(なつやまにあしだをおがむかどでかな)
芭蕉はすがれるものは藁にもすがりたいという気持ちだったのでしょう。みちのくの旅は、それほど苦難な道のりが予想されたのでした。
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