奥羽長途の行脚ただかりそめに思ひ立ちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへども、耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやうと・・
たどり着いたのは草加の宿とされています。草加煎餅の草加です。そして草加ではいま『おくのほそ道』の名所・旧跡がいろいろと紹介されています。
ところが草加にとって不都合なことに、『曽良旅日記』の存在があります(昭和18年出版)。曽良はこの旅の同行者。これにより、『おくのほそ道』は旅日記の体裁で、ノンフィクションぽいけれども、じつはフィクションである、そういうことが明らかになっています。文学作品ですから、考えてみれば当然です。
曽良によれば、芭蕉一行は千住のつぎは、草加ではなく、春日部に泊まっています。いわく
・・千住ニ揚ル。
一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。
芭蕉はなぜ春日部ではなく、草加に泊まったことにしたのでしょうか。春日部はあのクレヨンしんちゃんの舞台です。クレヨンしんちゃんの舞台だと俗におちると考えたのでしょうか。まさかね。草加煎餅のほうが、おくの細道の流れにあうと考えたのでしょうか。「グルメ旅、ウナギのつぎは煎餅だ!」まさかね。
答えは本文にもないようです。さきほどのつづき。
痩骨の肩にかかれる物、まづ苦しむ。ただ身すがらにと出で立ちはべるを、紙子一衣は夜の防ぎ、浴衣・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがにうち捨てがたくて、路次の煩ひとなれるこそわりなけれ。
ただひたすら荷がおもいと嘆くばかり(この嘆きは、山歩きをする者には切実です。)。なぜ、草加でなければならなかったのか。不易流行の観点から説明ができるのかもしれませんが、浅学非才の身には荷がおもい・・・。
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