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2023年11月6日月曜日

ブラタモリ「敦賀~すべての道は敦賀に通ず?~」

 


 ブラタモリで敦賀をやっていた。本ブログでとりあげた秀吉・家康、芭蕉・おくの細道や銀河鉄道999的世界に一切触れることはなく。

やはり「道」という観点から編集したせいだろうか。「道」という観点からすればなおさら秀吉・家康、芭蕉・おくの細道、銀河鉄道に触れてもよさそうなものなのに。監修を受けた研究者がみな畑違いだったせいだろうか。

敦賀湾から海をのぞむと水平線が見えない。つまり、北側、東側、西側の3方を海に囲まれている(すこし北上すると北西側が日本海にひらけている。)。古代から天然の良港として発達してきた。

近世では北前船が行き交い、昆布が名物となったことが番組でよく分かった。北方の昆布が敦賀で名物となったのは、近世までは日本海側が物資の大動脈だったからである。

そのことは、いちど秋田県の酒田にいけばよくわかる。酒田は庄内平野の北端にある。往時、酒田の商人は庄内平野の米を上方へ運んで巨万の富を得たのである。そのさまは、井原西鶴が『日本永代蔵』に活写したとおりである。

もちろん、その繁栄がそのままいまでもみられるわけではない。だけれども、山居倉庫として残っており、往時をしのぶことができる。さらには、吉永小百合が歩いた空気も感じられるかもしれない。

https://ameblo.jp/yu-tu-0101/image-12342041718-14106270310.html

さて幕末、列強と下関線戦争が勃発するや、京・大坂への米の搬入をどうするかという問題を生じ、敦賀から琵琶湖へむけて運河を掘ったようだ。

明治期、運河に代わり、鉄道が。新橋-横浜間と同時に計画されたというから、その重要性は明らか。

鉄道の停車場は金ヶ崎にあったようだ。『どうする家康』放映中でもあったし、秀吉・家康の退却戦のエピソードの紹介があると思ったが、なし。

鉄道から先、船はどこへ向かったかというとウラジオストック。そこからシベリア鉄道で欧州全域に向かうことができたようだ。

①日本国内から敦賀までの鉄道キップ、②敦賀からウラジオストックまでの船券、③ウラジオストックからベルリンまでの鉄道キップが1枚となったキップが紹介されていた。船便の半分くらいの日数でヨーロッパへ行けたようである。

日本からロシアを経てヨーロッパへ自由に行き来できた時代の貴重な歴史的なお宝である。いまは飛行機でされ自由に飛ぶことができない。タイトルの「すべての道は敦賀に通ず?」に「?」とあるのはこの意味でもあるだろうか?

2022年6月24日金曜日

ネムの花

 


 この時期雨のなか、福岡市内の街路樹にネムの花が咲く。花を見ると、おくのほそ道・象潟の段を思い浮かべる。そして美女のおもかげに魅かれて鳥海山に登りたくなる。

江山水陸の風光数をつくして、いま象潟に方寸を責む。酒田の湊より東北の方、山を越え、磯を伝ひ、いさごをふみてその際十里、日影ややかたぶくころ、汐風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に模索して「雨もまた奇なり」と・・風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天をささえ、その陰うつりて江にあり・・俤松島にかよひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

 象潟や雨に西施がねぶの花


2021年4月14日水曜日

補陀落→二荒→日光は駄洒落か


けさNHKーBS旅ラン10キロで、つるの剛士さんが日光を走っていましたね。こちら同行トミーがまだのようですけれども、先に行きます。

芭蕉一行は御山に参詣しています。御山は日光山です。その前は「二荒山」と書いていました。それを弘法大師空海が「日光」と改めました。「にっこう」の音が共通しているからです。

私が言うと駄洒落と非難されることも、空海や芭蕉が言うと格調高く評価されるのはなぜでしょう?なぞです。

ではなぜ「二荒」なのか。いま東部鉄道にSL「ふたら」が走っています。二荒も「にっこう」ではなく「ふたら」と読みます。「ふたら」の由来は「補陀落(ふだらく)」にあるという説があり、ぼくもそうだと思います。

補陀落は観音菩薩が降臨する霊場です。日本では熊野や日光が補陀落になぞらえられ、信仰を集めました。中世熊野では船に乗って補陀落を目指す、補陀落渡海がさかんに行われました。平家物語でも維盛はこの考えにもとづき入水します。

補陀落(ふだらく)→二荒(ふたら)→日光(にっこう)。繰り返しますが、駄洒落ではありません。

ここで芭蕉が詠んだ句

 あらたふと青葉若葉の日の光

「あら、尊と」は感嘆詞です。あらは荒ではありませんが、もちろん韻を踏んでいると思います。駄洒落ではありません。

はい、日光男体山を背にニッコリ(パシャ)。

2021年4月13日火曜日

お~い、オチは?


 芭蕉の次の宿泊地は日光。宿のあるじは仏五左衛門、ただ無智無分別にして、正直偏固の者でした云々。

日光といえば当然紹介されてしかるべき東照宮も家康も登場しません。江戸時代なのに。「なほ憚り多くて、筆をさし置きぬ。」結びはこうあるのみ。オチはなんだったのでしょうね。

私も富永くんとおなじく関西人です。というか、関西で小さいころ人格を形成しました。人の話をきいていて、どうしてもオチを期待してしまいます。九州人と話をしていてオチがないままに終了してしまうと、落ちつきません、はい。

2021年4月2日金曜日

室の八島・この花咲くや誓いの火室に


芭蕉一行は、埼玉から栃木に入り、室の八島明神(大神神社)に参拝しました。最初の歌枕の地。芭蕉はこの旅を通じて、先輩歌人たちが歌に詠んだところを訪ねてまわります。蕉風を深めんとして、先人に学ぼうという気持ちは切実です。

同行曽良は神道や地理にもくわしく、その説明。ここの神さまは、木の花咲くや姫で、富士山麓にある浅間神社とおなじ神さまです(出発の朝、富士の峰幽かに見えたことが思い浮かびます。)。

日向に降臨した天孫・ニニギが姫に求婚しました。父のオオヤマツミは喜んで、姉のイワナガ姫もさしだしました。けれども、ニニギはこの申出を断り、コノハナサクヤ姫とだけ結婚しました。彼らの子や孫の命が岩のように長くはつづかず、花のように儚いのはそのためだとか。なかなか美しい話です。

妻は一夜にして身ごもり、そのため夫は自分の子だろうかと疑いました。なかなか人間臭い話です。

妻は身の潔白を証明するため、夫の子であるから焼け死ぬことはないと誓いをたて、産屋に火を放ちました。新婚早々、激しい夫婦です。炎のなかから無事、火々出見(ホホデミ)の尊が誕生、誓いの火室に花が咲きました。

以上、室の八島の名前の由来です(八島は竈の意味)。ホホデミは海幸・山幸物語の山幸、山幸の孫が神武天皇です。以来、ここは煙のたつところとして歌に詠まれてきました。

 いかでかは思ひありとも知らすべき 室の八島の煙ならでは
                          藤原実方

じぶんの思いをどうしたら伝えられるだろう、八島の煙ならそれができるのに僕にはできない・・・。いまなら煙ではなく、SNSや各種アプリでしょうか。どんなにツールが発達しても、最後は勇気ですかね。さねかたは有名な貴公子なので、覚えておいてください。

コノシロという魚がいます。この地では、焼いて食べることを禁じられています。「この城を焼く」というのが縁起が悪いためだとか、人体を焼くような悪臭がするためだとか、木の花咲くや姫の苦難をしのぶためだとか。

2021年4月1日木曜日

草加の宿・荷がおもい


奥羽長途の行脚ただかりそめに思ひ立ちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへども、耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやうと・・

たどり着いたのは草加の宿とされています。草加煎餅の草加です。そして草加ではいま『おくのほそ道』の名所・旧跡がいろいろと紹介されています。

ところが草加にとって不都合なことに、『曽良旅日記』の存在があります(昭和18年出版)。曽良はこの旅の同行者。これにより、『おくのほそ道』は旅日記の体裁で、ノンフィクションぽいけれども、じつはフィクションである、そういうことが明らかになっています。文学作品ですから、考えてみれば当然です。

曽良によれば、芭蕉一行は千住のつぎは、草加ではなく、春日部に泊まっています。いわく

・・千住ニ揚ル。
一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。

芭蕉はなぜ春日部ではなく、草加に泊まったことにしたのでしょうか。春日部はあのクレヨンしんちゃんの舞台です。クレヨンしんちゃんの舞台だと俗におちると考えたのでしょうか。まさかね。草加煎餅のほうが、おくの細道の流れにあうと考えたのでしょうか。「グルメ旅、ウナギのつぎは煎餅だ!」まさかね。

答えは本文にもないようです。さきほどのつづき。

痩骨の肩にかかれる物、まづ苦しむ。ただ身すがらにと出で立ちはべるを、紙子一衣は夜の防ぎ、浴衣・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがにうち捨てがたくて、路次の煩ひとなれるこそわりなけれ。

ただひたすら荷がおもいと嘆くばかり(この嘆きは、山歩きをする者には切実です。)。なぜ、草加でなければならなかったのか。不易流行の観点から説明ができるのかもしれませんが、浅学非才の身には荷がおもい・・・。

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2021年3月31日水曜日

矢立の初め・千住

 


                 (千住大橋から下流方面)

さていよいよ深川の芭蕉庵を出発です。お弟子さんたちが前の晩から集まり、船で一緒に見送ってくれました。隅田川を遡上し、千住という宿場で船をおりました。

われわれが司法修習生の時代は、千葉県の松戸に寮がありました。そこから常磐線・千代田線で、上野にあった司法研修所に通いました。前期4か月、後期4か月の計8か月です。

ウナギが名物ときき、でかけたことがありました。北千住の駅でおりました。研修所は起案につぐ起案で、元気をつけようということでした。むかしの旅人もウナギを食べて、前途三千里の旅への精をつけたのでしょうか。

前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷に離別の涙をそそぐ。
  行く春や鳥啼き魚の目は涙
これを矢立ての初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後影の見ゆるまではと、見送るなるべし。

矢立ては筆と墨壺を組み合わせた旅用筆記用具。矢立ての初めは、旅の最初の句のことです。

いきなりとんで、場面は最終回。おくのほそ道の〆の句は
  蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
行く春の句を矢立てとし、行く秋の句でしめる。心にくい構成美です。

2021年3月29日月曜日

旅立ち・弥生のあけぼの


  おくのほそ道への旅立ちの年は、1689年(元禄2年)。芭蕉が慕う先達・西行の500回忌にあたります。このことだけでも、芭蕉の旅の目的をおしはかることができそうです。

旅立ちの日は3月27日。いまの暦でいくと5月16日です。芭蕉は塩竈の桜を見たかったようですが、それだとまだまだ寒い時節に出発しなければならないので、お弟子さんたちがとめたようです。

弥生も末の7日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから、富士の峰幽かに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心細し。

むかしは空気が澄んでいて、高層ビルもなかったでしょうから、江戸から富士山が見えることはすくなくなかったでしょうね。江戸人にとって、富士はいまよりずっと身近な存在だったと思います。われわれが宝満や四王寺をながめるような。

私のすくない経験からいっても、富士を見る機会は、東京出張の3分の1はあると思います。写真は羽田空港からのものです。たしかに、富士の峰が幽かに見えました(右上、雲の左下参照)。

富士のつぎに、芭蕉が思ったのは、上野・谷中の桜、つぎに花見ができるのはいつかなぁということ。3月27日ならいまからですが、5月16日なので今年はもう済んでいます。なので来年以降の話。これは現在のわれわれの心情にも通じます。はやく安心して上野の花見を楽しみたいものです。

上野の桜の写真は、ちょこっと探しましたが探し出せませんでした。見つけたら、またアップしますね。

2017年12月18日月曜日

『雪国』と『おくの細道』と銀河


 山歩きをしていると,高山植物や山岳の美しさだけでなく,真っ赤な日没,日の出,流れる雲,キラキラする空気や天空の美しさにも心を奪われます。

 山小屋に泊まると,夜中にごそごそ起きだす人たちがいます。用をたしにいくのかと思いきや,外できゃーとか言っています。なにをしているのかというと星空を嘆賞しているのです。もう満天の星空,降るような星々です。忘れていた子どものころの記憶が鮮やかによみがえります。

 こんかい『雪国』をよみかえしてみて思ったのは,能の理解による読みの気づきだけではありません。人間ドラマの背景として描かれている自然の美しさにも瞠目しました。上越国境の山々,雪山の美しい情景は見たことのある人とない人では,やはり感動のしかたがちがうと思います。そして芭蕉の句のあざやかな援用。悲劇的な結末の場面。

 「天の河。きれいねえ。」
 駒子はつぶやくと,その空を見上げたまま,また走り出した。
 ああ,天の河と,島村も振り仰いだとたんに,天の河のなかへ体がふうと浮き上がってゆくようだった。天の河の明るさが島村を掬い上げそうに近かった,旅の芭蕉が荒海の上に見たのは,このようにあざやかな天の河の大きさであったか。裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こうとして,すぐそこに降りてきている。恐ろしい艶めかしさだ。島村は自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた。天の河にいっぱいの星が一つ一つ見えるばかりでなく,ところどころ光雲の銀砂子も一粒一粒見えるほど澄み渡り,しかも天の河の底なしの深さが視線を吸い込んで行った。
                         『雪国』より

2017年12月11日月曜日

『嵯峨日記』筑紫野市の弁護士の日記


          (京都嵯峨野・落柿舎)

 嵯峨野を散策したとき,もちろん落柿舎もおとずれた。松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘として使用されていた草庵である。

 芭蕉の作品に『嵯峨日記』がある。彼が落柿舎に滞在したときの日記である。彼が残した唯一の日記である。1691年の4月18日から5月4日まで,わずか17日間の日記である。事務所のブログも断続的に書き継いできた。こんかいは1年8月もの長き沈黙を超えて更新中であある。長さだけは芭蕉に負けていない。

 前回『平家物語』を読破したことを書いた。平家を読もうと思ったきっかけは,芭蕉の『おくの細道』である。日本百名山をめぐり登るうち,羽黒山,月山,湯殿山の出羽三山に登る機会があった。その際,『おくの細道』を読んだら,実におもしろかった。それ以来,同書にはまったのだが,ちゃんと理解するには平家を読まないとと思い,平家に挑戦した。平家を理解すると,やはり『おくの細道』の理解も格段に深まったように思う。

 現在,『源氏物語』に挑戦中である。芭蕉が落柿舎に持ち込んだ書籍のなかに源氏もあった。そう日記に書いてある。源氏を読破し,芭蕉のような味わいのある日記が書けるようになりたいものだ。

2012年7月2日月曜日

ネムノキ by.福岡県筑紫野市の弁護士ブログ



 休明けの月曜はなんだか眠い
 ということでネムノキ(合歓木)。

 ネムノキは,眠むの木
 夜になると葉が閉じることから。

 夜に葉が閉じることから
 夫婦の夜の営みを連想させたよう。

 漢字名の「合歓木」は、中国において
 夫婦円満の象徴とされていたことから。

 梅雨の季節,きれいな花を咲かせています。
 (淡紅色の長く美しい部分はおしべ。)

 その美しい姿や葉の性質からでしょう
 花言葉は,歓喜,胸のときめき。

 一見,南国の花のようですが,古くから日本にも自生。
 その証拠に『万葉集』から。

  昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花
   君のみ見めや 戯奴さへに見よ

             紀 女郎

 戯奴(わけ)というのは
 目下の人を呼びかける言葉。

 年上の人妻・紀女郎が若き大伴家持に贈った歌
 元祖金妻ものでしょう。

 大伴家持が万葉集の編纂にかかわったとすれば
 懐かしくおもって採ったのか,自慢しながら採ったのか?

 すこしくだって
 『おくの細道』から。

  象潟や 雨に西施が ねぶの花

                   芭蕉

 象潟(きさかた)は秋田県の地名
 鳥海山の山体崩壊によってできた景勝地。

 西施(せいし)は古代中国の美女の一人
 芭蕉の時代にも,秋田の女性は美人が多かったのでしょうか?

  ※すみません。誤字のご指摘をいただきました(訂正済み)。
  ご指摘ありがとうございます。

  これも鳥海山に未登が原因と考え
  ぜひ近いところで登りたいと決意をあらたにしました(笑)。

         ちくし法律事務所 弁護士 浦田秀徳

2012年1月24日火曜日

再会の木 by.山歩きの好きな福岡の弁護士



 庭にクリの木を植えると
 極楽に行けるよ。

 なぜなら、栗は西に木と書くので
 西方・極楽浄土に通じるから。

 あはは…。
 こんなことをいうと、若い人にまた親父ギャグと笑われそう。

 でもきのう紹介したように
 松尾芭蕉の「おくの細道」に書いてあるといえばどうでしょう?

 芭蕉の権威で、若い人たちも「ははあ~」といってくれるでしょうか?
 それとも「芭蕉ってだれ?」。

 とまれ芭蕉が訪ねた須賀川の宿ちかくに
 大きな栗の木陰をたのみて世をいとう僧がいました。

 そこへ芭蕉が訪ねていき、橡ひろふ太山もかくやと覚えたわけです。
 (♪大きな栗の木の下で、あなたとわたし~)

 また奈良時代の僧・行基(近鉄奈良駅前にいる人)も一生
 杖や柱に栗の木を用いられたとか。

 すでに奈良時代から
 そう信じられていたもよう。

 いまの時期、ナンテンが庭に赤い実をつけてますね。ナンテンも
 「難(ナン)を転(テン)ずる」ことから、縁起の良い木とされます。

 さらに福寿草とセットにすれば
 「災い転じて福となす」とか。ことかえ(言替え)ですね。

 単なるシャレではなく
 言葉には魂が宿っているからです(言霊、言魂)。

 声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与え
 良い言葉を発すると良い事が、不吉な言葉を発すると凶事が起こる。

 なぜか?
 これまた「言」と「事」がおなじものだから。

 結婚式での忌み言葉も言霊の思想に基づきます。
 「終わり」とか「割れる」とかいっちゃダメというアレです。

 日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国
 「言霊の幸はふ国」なわけです。

 最近ではこのような呪術的な理解は
 さすがにうすれつつあります。

 でも人が言葉にしばられる生きものであることに変わりはなく
 よい言葉をたくさん発する人が幸せになるというのは経験的事実でしょう。

 メンタルトレーニングやコーチング、その他心理学・教育学的にも
 言葉を発することの重要性が指摘されているようです。

 そこで「再会の木」。
 宝満山から三郡山へむかう途中右におりると座主跡・キャンプ場に出ます。

 山頂にむかって左手・細い道をくだると、いわゆる女道。
 20メートルほどくだると右側にあります。 

 サイカチ(皁莢)の木です。
 ジャケツイバラ科あるいはマメ科の落葉高木。

 落葉樹ですから
 いまの時期は葉を落としています。

 この木に向かって好きな人と再会できるように祈れば
 願いがかなうと伝えられているとか。

 “えんむすび”の木であると
 竈門神社の説明が書いてあります。

 これもやはりサイカチがサイカイ(再会)と
 ナマったものでしょう。

 でも信じて言葉を発すれば
 必ず効果を発することでしょう。まさしく愛の言霊。

 ♪大きなサイカチの木の下で
 あなたとわたし…。

 再会できそうでできなかった「君の名は」
 真知子と春樹にもだれか教えてあげてください。

 宝満山頂までのぼる元気がないとお嘆きのあなたも
 心配いりません。

 サイズは小ぶりですが
 麓の竈戸神社・拝殿の右隣にもあります。

 またまたいま東京転勤中というあなたも
 心配いりません。

 日比谷公園にもあります。
 日弁連前の信号をわたり、50メートル東に入ったあたり。

 どなたさまも
 おためしあれ。

            ちくし法律事務所 弁護士 浦田秀徳

2011年6月10日金曜日

 芭蕉句碑ー宝満山の石碑



 宝満山を竈戸神社側から登り、7合目(「閼伽の井」「西院谷」)を過ぎ
 しばらくいくと、右上に、石碑があります。

 中宮跡まで行ってしまうと、見過ごしたことになります。
 戻るか帰りに見るか、思案のしどころでしょう。

 石碑には芭蕉の句

   世の人の みつけぬ花や 軒の栗

 「奥の細道」のなかの句です。
 芭蕉一行は白河の関を越え、福島県須賀川の宿

  この宿のかたはらに、大きなる栗の木陰を頼みて、世をいとふ僧あり。
  橡拾ふ深山もかくやと閑かにおぼえられて、ものに書き付けはべる、

  その詞、
 
   栗という文字は、西の木と書きて、西方浄土に便りありと、
   行基菩薩の一生 杖にも柱にもこの木を用ゐたまふとかや。

   世の人の みつけぬ花や 軒の栗

 というくだり。
 なぜ、この句が宝満山のこの場所に?

 不明ですが、宝満山がそのころ修験道の山であり
 精神的・気分的に芭蕉の句と相通じあうものがあったからでしょうか。

 なお「橡(トチ)拾ふ深山」は
 西行法師のつぎの歌より。

   山深み 岩にしただる 水溜めむ
          
           かつがつ落つる 橡拾ふほど

 これには閑かさだけでなく、橡(トチ)と栗の実の連想によるところも
 ありましょうか。