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2021年12月24日金曜日

2021年のまとめ


  みなさん、メリークリスマス
 子どもたちも大きくなり、ホールケーキも買わなくなってひさしく、クリスマスムードはいまひとつですが、ことしもあとすこし。

きょうはことしのまとめを。

第1は、コロナ禍のなか、初孫がうまれ元気に育っていることでしょうか。イタリアから里帰り出産、いまはイタリアからときどき動画でも元気な顔を見せてくれます。

第2は、コロナ禍のなか、家族ともども健康で元気でいられたこと。子どもらが公務員試験に合格したり、薬局長に昇格したりしたのもうれしい話題でした。

第3は、コロナ禍のなか、大過なく仕事ができたこと。優秀であたたかいスタッフにたすけられ、支えられました。

第4は、コロナ禍のなか、子どもたちと山に登れたこと。難所が滝の氷瀑、四王寺山のセリバオウレン、西穂独標の残雪、九重山坊がツルのテン泊、九重山黒岳原生林の紅葉など心に残ります。

第5は、コロナ禍のなか、怪鳥会や同友会で山に登れたこと。怪鳥会では、四王寺山、由布・大崩、上高地・焼・西穂・双六に。同友会では、四王寺山、紅葉の九重山黒岳原生林に。

第6は、コロナ禍のなか、単独でも元気に山に登れたこと。雪の宝満山、武奈ヶ岳、大雪~トムラウシ縦走、白神・鳥海、能郷白山・位山に登りました。緊急事態宣言のため中止したものもいくつかあります。

第7は、コロナ禍のなか、旅行・出張に出かけられたこと。敦賀・越前・京都、象潟・酒田・鶴岡、京都・奈良、和歌山・大阪。

第8は、コロナ禍のなか、家族、事務所メンバー、山仲間、地域のみなさん、高校同級生らと楽しい会食・交流ができたこと。

ことしは1月14日~2月28日(2回目)、5月12日~6月20日(3回目)、8月2日~蔓防、8月20日~9月30日(4回目)の緊急事態宣言発令でした。ざっくり4か月以上。1年の3分の1以上の期間、県外移動自粛など人流制限・行動制限がかかっていたことになります。

残り3分の2の期間のスコアとしては、まあまあ頑張ったかなと思います。すべてのことに感謝。ありがとうございます。

2021年10月14日木曜日

象潟ーおくのほそ道拾遺④

 




 この旅の結びは象潟(きさがた)。芭蕉が松島とともに絶景をうたいあげた地だ。ただ残念なことに、芭蕉が訪れた当時と現在では絶景は絶景でも変化がある。

 朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮かぶ。まづ能因島に舟を寄せて、三年幽居の跡を訪ひ、向こうの岸に舟を上がれば、「花の上漕ぐ」と詠まれし老い木、西行法師の記念を残す。江上に御陵あり、神宮后宮の御墓といふ。寺を干満珠寺といふ。・・・

 象潟や雨に西施がねぶの花

 象潟や料理何食ふ神祭り 曽良

このあたりは、鳥海山・飛島ジオパークとなっている。日本海を暖流が流れ、北西の季節風が鳥海山に大量の雪を降らせ、川や湧水となって里をうるおすーそういった循環がパークのテーマとなっている。

鳥海山はふるくから噴火を繰り返してきた。山頂周辺には、それが外輪山や新山といった形で残っている。それだけではない。麓にももちろんその影響がおよんでいる。

鳥海山の北に位置する象潟はもともと海だった。そこへ鳥海山が噴火、巨大な岩塊が流れ下り、海に達してたくさんの島ができたという。能因島、弁天島をはじめ九十九島と呼ばれる。芭蕉らはそれらの島々を舟で周遊した。

こちらは駅から徒歩である。駅横に句碑が2種類ある。街のあちこちにネムノキが植栽されている。芭蕉の句によるものであることは言うまでもない。

5分ほどで欄干橋(象潟橋)に着く。芭蕉が舟に乗ったところである。舟をつないだ石も史跡として残されている。芭蕉はこの橋から鳥海山の美しい姿を嘆賞したという。

橋のちかくには熊野神社がある。曽良の句にある神祭りはこの神社の祭りだ。

欄干橋・熊野神社からは能因島より干満珠寺がちかい。5分ほど。寺の旧参道からは九十九島を望むことができる。九州人にとって九十九島といえば長崎だが、東日本人にとってはこちらのようだ。

見てのとおり、200年前の地震で地面が隆起して、いまでは海ではなく陸になってしまっている。それはそれで美しい。

ただこの日はあいにく雨が降ったりやんだりの天気。鳥海山は望めなかった。写真右をよく見ると、虹がでている。虹のむこうには幸せがまっているだろうか、それとも美女が・・。

芭蕉は象潟の絶景を中国の美女、西施にたとえた。JR東日本は吉永小百合を起用し、九十九島への旅を勧めている。吉永小百合が出演するPVは日本の西施が舞っているようだ。

2021年10月7日木曜日

最上川くだりーおくのほそ道拾遺①

 




 本年3月26日から9月1日まで『おくのほそ道』を連載した。慧眼な読者はお気づきだと思うが、筆者もすべての土地に行ったことがあるわけではない。6割ぐらいか。だいたい写真を見れば行ったことがあるかどうか分かると思う。

書きながら、行ったことないけどなぁと思っていた。誰かから「そこは違うよ」と言われるのではないかと、ビクビクものだった(笑)。

今般、白神岳、鳥海山を登るため、青森、秋田から山形にかけて移動したので、例によってすき間の時間に芭蕉の足跡も訪れた。時系列でいうと象潟、酒田、最上川くだり、鶴岡だが、芭蕉が訪れた順に再構成してお伝えしたい。

まずは最上川くだり。最上川は日本三大急流の一つ。球磨川、富士川と並ぶ。芭蕉一行は、尾花沢・大石田から最上川を舟でくだって出羽三山へむかった。そのくだりである。

これまでに陸羽西線に乗り、余目から新庄まで行ったことはあった。車窓から左手にずっと最上川が流れていた。尾花沢に行き、大石田で最上川を渡ったこともあった。しかし、最上川を舟でくだったことはなかった。今回、初挑戦である。

芭蕉の当時、新庄(本合海)から清川まで、もちろん鉄道はなく、道もなかった。移動は最上川の舟運によるしかなかった。その感動が名句を生み出した。

現代、本合海から清川まで一連の舟運はなく、観光クルーズが上流、中流、下流の3つに分かれている。今回はネットで一番人気の中流の「最上川芭蕉ライン船下り」を選択してみた。

酒田の駅から余目で乗り換え、陸羽西線を新庄方面へ向かう。清川駅のてまえあたりからは左手に最上川が見えている。古口駅で降りて、10分ほど上流へむけて歩くと、乗船場。むかしの番所が再現されている。

ふつうであれば、ここから清川まで1時間で下る。しかしこの日は残念ながら下流で風が強く水量が不足して操船がむずかしいという理由でくだれず、周回することに。残念、しかし雰囲気を味わうことはできた。

船頭さんの語り口が達者で軽妙だ。小1時間、乗客を飽きさせない。クルーズ会社の興隆の歴史をおもしろおかしく語ったり、おくのほそ道を暗唱してみせたり、民謡を唄ったり。

4つ目の写真は「おしん」のロケ地。親子別れの感動のシーン。昭和58年1月というから、ぼくは司法試験に合格して後輩の指導にあったていたころ。記憶はうすいが、回想シーンなどでなんとなく見たような気がする。

舟会社もNHKに1週間、全面的に協力したらしい。その間、リアルさを追求するということで、実際の船頭さんも1週間撮影につきあわされたらしい。その結果、やく2秒船頭が映っただけで、しかも顔は見えなかったらしいが(船頭さんの語り口だともっと面白い)。

ほっておかれれば、田舎の川にすぎなかった最上川が、芭蕉とおしんの2大スターにより日本中に知れ渡ったらしい。そしてクルーズ会社に「莫大な」利益をもたらしたらしい。芭蕉さま、おしんさまさまらしい。かくて、帰りは2人のスターになりきり、映え?写真を撮ることができる。

2021年10月6日水曜日

鳥海山登山記(2)


  鉾立にある象潟口登山口を出発し、賽の河原を経て、2時間登ると御浜小屋に着く。小屋裏から西を望むと、鳥海湖がある。深いブルーに輝いている。その奥には月山が遠く裾野をひろげている。西側には庄内平野が広がっている。ちょうど稲穂が垂れ、黄金色に波打っている。その右手は日本海だ。

 この一望で、日本海から冬の季節風が月山と鳥海山に大量の雪を降らせ、その雪解け水が川や伏流水となって庄内平野をうるおし、それがおいしい米を育てていることが分かる。庄内平野の右手前が酒田の町だ。酒田は庄内米を上方に運び、廻船問屋が繁盛した。


 御浜小屋から、扇子森を経て、八丁坂を登り、七五三掛まで1時間余。そこから右手の外輪山コースと左手の千蛇谷コースにわかれる。千蛇谷にいったん下る。雪渓をわたると、あとは山頂手前の大物忌神社まで1時間20分の登りである。中央のギザギザが山頂。山頂部までなだらかな稜線が美しい。紅葉まであとすこし。右上に見えているのは外輪山である。

 大物忌神社で休憩。
 大きな岩がゴロゴロ積み重なるなか、両足両腕を総動員して30分登ると、新山山頂である。2236メートル、東北第2位の高峰だ。雲海のうえに突き出て、まるでナウシカかラピュタな景色が爽快だ。新山は1801年の噴火の際、隆起したもの。火山の歴史からすれば新しく、まだ岩だらけだ。「北アルプスの岩稜よりすごい!」と、登頂した人たちが興奮している。


 新山登頂後は、大物忌神社まで引き返して昼食。そして神社の裏にまわって、外輪山の急坂を登る。きょう最後の登りだ。
 外輪山の稜線からは、東のほう、岩手の山々がのぞめるはずだが、きょうはどこまでもつづく雲海におおわれている。それもまた気持ちがいい。


 外輪山を時計回りに周回する。20分ほどで伏拝岳に達する。いま登ってきたばかりの地元のご夫婦が絶景に歓喜している。独り占めもいいが、感動は共有するとより大きくなる。

 名残りおしいが、ここから川原宿・湯ノ台方面に下山だ。固有種であるチョウカイアザミが咲くことから名付けられた薊坂をぐんぐん下る。心字雪渓を下る必要はなかった。1時間15分で、ようやく河原宿。さらに湯ノ台道を下る。こんなに長い坂だったか。7年前の記憶と照合するが、うまくあわない。30分ほどで下山口の滝の小屋到着。ふう。

 すばらしい一日だった。
 写真では100分の1の爽快さも伝わらないかもしれないが、イメージをひろげてくだされ。

2021年10月5日火曜日

鳥海山登山記(1)

 

 白神岳登山口から五能線を戻り、東能代、秋田で乗り換えて、象潟に泊まった。

ここでもコンビニまで片道20分以上も歩かなければならなかった。コンビニエンスな生活に馴らされてしまって、こういう環境にさえ不便を感じる。もはや山中にこもっての修行など到底かなわない。

 翌日は鳥海山をめざした。ここまで来て、白神岳だけに登って帰るのはいかにももったいないから。

鳥海山は秋田と山形にまたがる日本百名山。標高2236m。日本海からすっくと立ち上がった独立峰。なだらかな稜線が美しい。出羽富士とも秋田富士とも呼ばれる。

遠目には富士山のように美しい円錐形だが、踏み入ると複雑な地形になっている。なんども噴火をくりかえした結果だ。山頂部は1801年に隆起し、いまだ大きな岩が積み重なっている状態だ。

冬に日本海からふきつけるしめった季節風が大量の雪を降らせる。そろそろ初雪が降ろうかというこの季節になっても、山腹のあちこちに雪渓が残っている。

大量の雪は迷惑なだけの存在かというと、そうでもない。恵みももたらす。春になれば雪解け水となり、川や湧水となって里を潤す。米どころ、庄内平野の米はこの水によっている。水がおいしいから米もおいしい。

酒田は江戸時代に「西の堺、東の酒田」といわれたぐらい栄えた(『日本永代蔵』)。廻船問屋が庄内米を上方に運んだからだ。米だけでなく、紅花も運んだ。

鳥海山に登るのは2回目だ。前回は7年ほど前、山形県側から登った。登山口にある滝ノ小屋に一泊。月山を下山して鶴岡から迂回したので、遅い到着だった。同宿に福島大学の労働法の先生とそのお連れ合いがいた。管理人が歌詞カードをもちだしてきて、山の唄を歌った想い出がある。

今回は逆コース、秋田県側から登り、山形県側にくだった。秋田県側の登山口も複数あるが、鉾立にある象潟口を選んだ。

鉾立の地名は九重山にもある。朽網分れから登り、白口岳と立中山の間の峠だ。むかし巻狩りをしたあとらしい。

巻狩りといえば、源頼朝がおこなった富士の巻狩りが有名だ。なぜなら、武士の軍事演習としての意味もあり、頼朝の威勢を示すため70万人が参加したともいうし、曾我兄弟の仇討ちの舞台ともなったから(『吾妻鏡』『曽我物語』)。

鉾立という場所は、サッカーのゴールのようなもの。そこに鉾を立てて、網を張っていたらしい。動物をそこに追い込んで捕まえるのである。魚の追い込み漁のようなものだ。九重や鳥海でもおなじようなことがおこなわれたのだろう。

鉾立はすでに5合目である。降り口である滝ノ小屋もおなじく五合目くらいだから楽そうだが、じつはそうでもない。コースタイムは7時間もある。稜線が長大だからだ。前日の白神岳登山の疲れものこっている。登れるだろうか。

雲ひとつない好天だ。さあ、がんばって登ろう!

2021年8月4日水曜日

象潟(きさがた)


(南に鳥海、天をささへ)


 


(ネムの花)

 江山水陸の風光数を尽くして、今象潟に方寸を責む。酒田の港より東北のかた、山を越え、磯を伝ひ、いさごを踏みて、その際十里、日影やや傾くころ、潮風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山隠る。暗中に模索して「雨もまた奇なり」とせば、雨後の晴色また頼もしきと、蜑の苫屋に膝を入れて、雨の晴るるを待つ。その朝、天よく晴れて、朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮かぶ。まづ能因島に舟を寄せて、三年幽居の跡を訪ひ、向こうの岸に舟を上がれば、「花の上漕ぐ」と詠まれし桜の老い木、西行法師の記念を残す。江上に御陵あり、神功皇后の御墓といふ。寺を干満珠寺といふ。この所に行幸ありしこといまだ聞かず。いかなることにや。この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天をささへ、その影映りて江にあり。西はむやむやの関、道を限り、東に堤を築きて、秋田に通ふ道遙かに、海北にかまへて、波うち入るる所を汐越というふ。江の縦横一里ばかり、俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。

 象潟や雨に西施がねぶの花

 汐越や鶴脛ぬれて海涼し

   祭礼
 象潟や料理何食ふ神祭り 曽良

 蜑の家や戸板を敷きて夕涼み 美濃の国の商人 低耳

   岩上に雎鳩(みさご)の巣を見る
 波越えぬ契りありてや雎鳩の巣 曽良

 文中にあるとおり、象潟は、おもかげ松島に通いて、また異なり。松島は笑うがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加えて、地勢魂を悩ますに似たり。

東西横綱対決、東の横綱が松島で、西の横綱が象潟。松島は太平洋側のせいか陽、象潟は日本海側のせいか陰です。

芭蕉の格調高き美文も、いずれ劣らぬものになっています。松島「島々の数を尽くして」、象潟「江山水陸の風光数を尽くして」。松島「江の中三里」、象潟「江の縦横一里」、松島「その気色窅然として、美人の顔を粧ふ」、象潟「寂しさに悲しみを加えて、地勢魂を悩ますに似たり」など好対照。

「雨もまた奇なり」は蘇軾(蘇東坡)の「飲湖上初晴後雨」、水光瀲灔として晴れてまさに好し、山色空濛として雨もまた奇なりから。略して、晴好雨奇といいます。

呉越同舟という言葉がありますが、戦国時代、呉と越ははげしい戦を繰り返していました。その際、越が呉に献上した美人が西施。呉の王は西施におぼれ、ついには国を滅ぼしてしまいました。美人のことを傾城といいますが、このことです。

この詩は、このあと西湖と西施を比べようとすればと続き、美しい水景色と美しい西施を対比するイメージを導きます(松島も西湖をはぢずとされていました。)。

そして淡粧濃抹総べて相宜しと結びます。雨に煙る景色は西施のうす化粧、キラキラ晴れの景色は濃い化粧。どちらもすばらしく甲乙つけがたいというわけです。

こうして見てくる、雨のち晴だったという芭蕉たちの天気も、蘇東坡の詩にあやかるための文飾なのかもしれませんね。

蜑の苫屋に膝を入れて雨の晴るるを待つたのは、あとで出てくる能因の歌にあやかったものです。

 世の中はかくても経けり象潟の 海士の苫屋をわが宿にして

能因は、海士の苫屋をわが宿にして象潟で三年幽居したというのですが、ほんとうでしょうか。かれは歌のためならなんでもする人だったようです。白河の関で紹介した歌について、有名な噂があります。

 都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関

 能因はこの歌を作ったものの、じっさいには白河の関に行ったことがなく、そこで旅にでたらしいと噂を流し、家にこもって日焼けをしたうえで、この歌を公表したというのです。あはは。(能因はじっさいには奥州を旅しています。でもこのような噂があったのは、ほかでもそのようなケレン味のある振舞いがあったということでしょう)

「花の上漕ぐ」と詠まれし桜の老い木とあるのは、西行が詠んだとされる次の歌(なにせ、500年前の歌ですから、桜も老い木のはず)

 象潟の桜はなみに埋れて 花の上漕ぐ海士の釣り舟

ネムの木は、夜になると葉が閉じて垂れ下がります。なので、眠むの木。西施の瞳も眠たげだったのでしょうか。もちろん芭蕉も西施に会ったことはなかったでしょうが、ネムの花のようだといわれれば、そんな気がしてきます。花言葉は歓喜。

波越えぬ契りありてやは、末の松山の段で紹介した次の歌を踏まえています。

 君をおきてあだし心をわが持たば 末の松山波も越えなむ

 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは 清原元輔

岩上を波が越えたかどうかは分かりませんが、芭蕉が訪問した100年後、象潟は大地震で土地が隆起してしまい、潟としての風景は失われてしまいました。芭蕉が信じた大自然の景観さえ、不易ではなかったんですねぇ。

2012年7月2日月曜日

ネムノキ by.福岡県筑紫野市の弁護士ブログ



 休明けの月曜はなんだか眠い
 ということでネムノキ(合歓木)。

 ネムノキは,眠むの木
 夜になると葉が閉じることから。

 夜に葉が閉じることから
 夫婦の夜の営みを連想させたよう。

 漢字名の「合歓木」は、中国において
 夫婦円満の象徴とされていたことから。

 梅雨の季節,きれいな花を咲かせています。
 (淡紅色の長く美しい部分はおしべ。)

 その美しい姿や葉の性質からでしょう
 花言葉は,歓喜,胸のときめき。

 一見,南国の花のようですが,古くから日本にも自生。
 その証拠に『万葉集』から。

  昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花
   君のみ見めや 戯奴さへに見よ

             紀 女郎

 戯奴(わけ)というのは
 目下の人を呼びかける言葉。

 年上の人妻・紀女郎が若き大伴家持に贈った歌
 元祖金妻ものでしょう。

 大伴家持が万葉集の編纂にかかわったとすれば
 懐かしくおもって採ったのか,自慢しながら採ったのか?

 すこしくだって
 『おくの細道』から。

  象潟や 雨に西施が ねぶの花

                   芭蕉

 象潟(きさかた)は秋田県の地名
 鳥海山の山体崩壊によってできた景勝地。

 西施(せいし)は古代中国の美女の一人
 芭蕉の時代にも,秋田の女性は美人が多かったのでしょうか?

  ※すみません。誤字のご指摘をいただきました(訂正済み)。
  ご指摘ありがとうございます。

  これも鳥海山に未登が原因と考え
  ぜひ近いところで登りたいと決意をあらたにしました(笑)。

         ちくし法律事務所 弁護士 浦田秀徳