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2023年7月18日火曜日

『潮騒』と水俣病現地検証

 

 先日書いたとおり、鳥羽から伊勢湾・伊良湖水道を横断して伊良湖岬へ渡った。その際、フェリー甲板から右手に、神島を望むことができた。

三島由紀夫の小説の舞台である。せっかくの機会なので、『潮騒』を再読した。

小説、映画やアニメの舞台をめぐる聖地巡礼がはやりである。小説などを味読するうえで、聖地巡礼は必要だろうか。

現実を知ることはイメージの広がりを制約する、だから聖地巡礼は必要ないし、むしろ有害であるという考えもあるだろう。しかしぼくは聖地巡礼肯定派だ。

もののけの森のモデルといわれる屋久島の白谷雲水峡、『千と千尋の神かくし』のモデルといわれる台湾の九份、『君の名は。』のモデルといわれる飛騨高山の位山など。いずれも訪れて損はしなかった。

なかには原作のイメージを制約するところもないではないけれども、どちらかといえば豊かにしてくれるように思う。

『潮騒』の冒頭、神島そのものが神々しく描写される。伊勢湾に浮かぶ島。大綿津見神が支配する。西は伊勢・鳥羽、北は知多半島、東は伊良湖岬・渥美半島、南は太平洋。その描写がすばらしい。

三島が29歳のときの作。若いのに、さすが。一行とて無駄な文章がない。

現地を知らないで本文を読めば、たいくつさを感じるかもしれない。しかし現地を知ったうえで本文を読めば、一行一行の描写の的確さに舌を巻く思いがする。

弁護士になりたてのころ、水俣病訴訟に関与した。水俣病を理解するのに、現地を知ることほど重要なことはない。

チッソの工場の立地、そこから有機水銀が排出され、水俣湾を汚染した。水俣湾は半島や島々で囲繞されていて、有機水銀が集積しやすく、希釈されにくい。

裁判官を案内して現地検証をおこなった。漁船に乗って、あの島で何人の患者が発生し、あの半島のあの地区で何人の患者が発生したなどと指示説明を行った。

とても悲惨な公害被害現場を案内しているのであるけれども、他方で、水俣湾の美しさはたとえようもなかった。三島の見事な自然描写を読んでいると、あのときの記憶がいきいきとよみがえってきた。

2023年6月14日水曜日

笈の小文(2)椰子の実


  というわけで、『笈の小文』は何度か読んでいたのだけれど、いま一つ浸りきれないと思っていた。芭蕉が自分で書いたものかどうか分からないし、未定稿だし、『おくのほそ道』に比べて地の文が少なく、はなはだ読みにくいのである。

『笈の小文』に出てくる土地々も、『おくのほそ道』に比べると、発句が1句あるきりで地の文がなかったりする。伊良湖崎も、そういう意味で字面では理解しつつも、抽象的な存在であった。

ところが昨年末、恩師がここを訪ねたとSNSに投稿された。そして島崎藤村の「椰子の実」の歌碑も見学されたという。

藤村は『夜明け前』を書いたあの藤村である。藤村の「椰子の実」の歌はこう。

 名も知らぬ遠き島より
 流れ寄る椰子の実一つ
 故郷の岸を離れて
 汝はそも波に幾月
 旧の木は生いや茂れる
 枝はなお影をやなせる
 われもまた渚を枕
 孤身の浮寝の旅ぞ
 実をとりて胸にあつれば
 新なり流離の憂
 海の日の沈むを見れば
 激り落つ異郷の涙
 思いやる八重の汐々
 いずれの日にか国に帰らん

先に書いたとおり、伊良湖崎は本州の南端。南の国から鷹も渡ってくれば、椰子の実も渡ってくるのである。もしかすると、アサギマダラも渡ってくるかもしれない。

先日「ブラタモリ」で、種子島をやっていた。種子島には世界最大規模の海流である黒潮が南からやってくる。戦国時代、種子島銃を舶載したポルトガル船がやってきたのも、黒潮に流されてのことだという。

日本には南からいろんなものや文化がやって来るのだ。藤村はそれをきわめてロマンチックに歌っている。

しかしである。藤村はわがことのように歌っているが、実は椰子の実を見つけたのは、学友だった柳田國男である。柳田國男は『遠野物語』を書いたあの柳田國男。藤村は柳田から聞いた話を歌にしたてた。いまふうに言えば、藤村は柳田の経験をパクったのである。しかし、ここまで立派な歌になると、単なるパクリとはいえない。

話を戻すと、恩師の投稿をきっかけに、俄然、頭のなかを鷹や椰子の実やアサギマダラらが行き交い、伊良湖岬という名が生き生きと脈打つようになった。

かくて、旅好きとしては、是非一度尋ねてみたいと思うようになった。『笈の小文』をいま読み返している理由は、そういうことである。

2023年6月9日金曜日

笈の小文(1)伊良湖岬

 
(松本へ向かう飛行機の窓から。中央は伊勢湾、その向こうは太平洋。右側の陸は手前から松坂、伊勢、鳥羽。左側の陸は手前からセントレア空港、知多半島、三河湾の向こうに渥美半島。渥美半島の先端が伊良湖岬)

 芭蕉の紀行文に『笈の小文(おいのこぶみ)』がある。『おくのほそ道』の旅にでかける2年前、江戸から故郷の伊賀へ帰る里帰りの旅である。

里帰りだけでなく、関西各地の歌枕をめぐり、最後は須磨までの紀行文である(実際の旅は、その後、関西の旅、更科紀行の旅を経て江戸に帰るまで続く)。

芭蕉の死後15年も経ってから、弟子の乙州(おとくに)が出版したもの。そのため、分からないことも多い。

未定稿。芭蕉の発句や俳文で構成されていることは疑えないけれども、乙州の手がどの程度入っているのか、編集がなされているのか謎である。

この紀行をいま読み返している。そのいきさつはこう。

『笈の小文』は、冒頭の記述のあと、なぜか、名古屋の鳴海からはじまる。箱根も富士も遠江(浜名湖)も描かれない。

鳴海から、芭蕉は三河の国保美という處に二十五里戻る。保美は渥美半島の先端にちかい。写真でいうと、左上のほう、左から矢のように突き出ているのが渥美半島。その鏃(矢尻)の中央部分に保美はある。

100キロであるから25時間かかる。ナビで検索してみたところ、やはり99.6キロ。一日50キロ歩いても、まる2日かかる行程である。

旅の途中でなぜ100キロも後戻りしたかというと、愛弟子の杜国が罪人としてそこに流されていたから。杜国の罪は米の空売りである。

かれは裕福な米穀商だったが、在庫がないのに売るのは行きすぎ。ある種の詐欺である(現在では、流通が発達しているので、すべてが犯罪というわけではない。先物取引などは、いまだ実在しない商品の売買をあらかじめ行っている)。

「笈の小文」を読めば分かるが、ふたり旅のあいだ、芭蕉はとてもはしゃいでいて、単なる師弟関係以上のものがあったといわれる。恋人が罪をえて失意の底にあるときけば、彼を慰めるのに100キロの道のりもなんのその。

かれらは、伊良湖岬を訪れている。保美からわずか一里ばかり。1時間ほどの行程である。

天武朝の皇族麻績王(おみのおおきみ)は伊良湖に流されている。古くから流刑地だったようだ。その歌。

 うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良湖の島の玉藻刈り食す

伊良湖岬は、三河の国の地つづきなのだけれども、万葉集では伊勢の名所に選ばれている。なぜか。写真を見ればわかるとおり、船便なら近いからである。

紀伊半島を度外視すれば、本州の南端に位置している。そのため、秋には南から鷹が渡ってくる。鷹は冬の季語だが、鷹渡るは秋の季語である。

西行の歌がある。伊勢で詠んだという。

 巣鷹わたる伊良湖が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな

巣鷹は飼育された鷹のこと。臆病なので、木に戻ってしまう。芭蕉らは、麻績王や西行の歌は当然知っていた。

罪人の杜国はもちろん、芭蕉も心細い気持ちだったろう。そこで詠んだ句。

 鷹一つ見付てうれしいらご崎

もちろん、鷹とは杜国のことである。

冬の鷹といえば、吉村昭に同名の小説がある。Amazonの解説によればこう。わずかな手掛かりをもとに、苦心惨憺、殆んど独力で訳出した「解体新書」だが、訳者前野良沢の名は記されなかった。出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に、彼は終始地道な訳業に専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死する・・。

100年後に苦労したこちらの冬の鷹も世渡りが下手だったのだろう。吉村昭の小説は、新潮文庫の100冊に選ばれていたので、読んだのだったと思う。残念ながら、さいきんは選に漏れているようだ。はやらないのだろうか。

                                    (つづく)

2022年12月14日水曜日

伊良湖岬と椰子の実と鷹とアサギマダラと日本人

 

 高校時代の恩師は、翌日雨のなか、椰子の実記念碑・歌碑を訪ねられたという。

記念碑・歌碑は島崎藤村作詞の「椰子の実」の歌を記念するもの。この歌、ご存じだろうか。

 ♪名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ

歌詞は実体験に基づく。しかし藤村のオリジナル体験ではなく、柳田國男の体験を拝借したものである。

柳田は大学生のころ身体を悪くして伊良湖崎で一ヶ月静養したことがあった。その際、海岸を散歩していて、椰子の実が流れて来るのを見つけたのだという。

東京に帰って近所に住んでいた藤村にその話をしたら、彼はすかさず「君、その話をぼくに呉れ給へよ」と言って、「椰子の実」を作詞したらしい。椰子の実が流れ着いたという旅先での一経験をもとに、誰もが感動する詩に見事にしたてあげたのである。藤村の詩人としての感覚と実力の確かさだろう。

柳田はこの経験が悔しかったのか、その体験を文章にしたほか、のちに『海上の道』を著わし、日本人は南方からやってきたという日本人起源論を公表している。藤村にせよ、柳田にせよ、すごい。海岸に漂着した椰子の実ひとつのエピソードから、自分の本業の業績に結び付けるのだから。

梅雨まえの季節になると、ミヤマキリシマが九重山や霧島連峰を赤く染める。植物学者の牧野富太郎博士は新婚旅行の際、これに目をとめ、ツツジの新種であることを鋭く見抜きミヤマキリシマと命名したという。

世に名を残した偉人たちは、日ごろの疲れを癒やすためにのんびり旅行をするなどという術(すべ)を知らないのだろうか。われわれ凡人たちにはできない荒技である。

さて、きのうは鷹(サシバ、ハチクマ)の渡りのことを書いた。海路、椰子の実が南の島から渡ってくるのであれば、空路、鷹が南の島から渡ってきても不思議ではない。鷹の渡りについて、西行の歌や芭蕉の句があることも昨日紹介した。

ところで、「鷹」は冬の季語、「鷹の渡り」は秋の季語である。ここで、あれ?っと思わないだろうか。

鷹は南の島から春に日本列島に渡ってきて、秋に南の島へ渡っていく。だからこそ、鷹の渡りは秋の季語であり、伊良湖岬では毎年9月から10月にかけてたくさんの鷹が南へ渡っていくのが観察できるのである。

そうなると、鷹は冬には列島にいないはず。なのになぜ、鷹は冬の季語なのか?グーグルさんに訊いてみると、俳人のかたでおなじようにあれ?と思った方がいた。でもその方も答えにたどりつかなかったようだ。

われわれにとって『冬の鷹』といえば、吉村昭の小説だ。江戸時代、前野良沢はオランダ語の解剖書を苦心惨憺のすえ「解体新書」に翻訳。如才ない杉田玄白の名が世間に売れる一方で、良沢は名を知られないまま孤高の晩年を貫く。

ということで、冬の季語としての鷹は、群れをなして暖かい南の島へ行ってしまう鷹ではなく、他の鷹がいなくなったあと、ひとり列島で孤高を貫く鷹の意味ではなかろうか。例句もそのような意味のようだ。

さらにところで、恩師の投稿によると、伊良湖崎はアサギマダラも渡ってくるそうだ。アサギマダラは蝶でありながら、秋に南西諸島・台湾に渡り、夏には逆コースを北上して、1500キロメートル以上も移動した個体もいるという。

九州の里山で目撃することもある。日本アルプスの稜線を多数が舞い飛んでいるところに遭遇したこともある。

九州人であるせいか、これまでばくぜんと沖縄、奄美、屋久島、九州、四国、中国、本州と島伝いに渡っているのだろうと思っていた。ところが、太平洋からダイレクトに伊良湖崎へ渡って来る個体もあるということらしい。なんというロマン。

小さい身体ながら渡りをしなければならないとはたいへんだ。とこれまで思っていた。しかしコロナ禍のなか思う。鷹やアサギマダラのやり方もリゾート的で、うらやましいと。冬は南の島で暮らし、夏は比較的温暖な列島ですごすのだから。

柳田説には批判もあるようだ。しかし、椰子の実や鷹やアサギマダラも大挙して渡ってくるのである。人類だって渡ってきたっておかしくない。

南から渡ってきた人類が日本人の起源にならなかったとすれば、その人たちの性格がおだやかだったので、北から来た陰険な人たちに攻め滅ぼされたせいかもしれない(あっ、それって、われらのご先祖さま?)。

2022年12月13日火曜日

伊良湖岬とLGBT

 

 写真は、FDAの飛行機で松本に向かう途中、名古屋上空から伊勢湾方面を望んだところ。左側手前が愛知県の知多半島、向こうが渥美半島。右側が三重県の志摩半島。

渥美半島の西の端(右端)に伊良湖岬がある。その向こう側が恋路が浜。志摩半島の先端は鳥羽。なお、知多半島の中央西にセントレア空港が浮かんでいる。

高校時代の恩師が伊良湖岬あたりを旅行中とSNSに報告していた。恩師は大阪住まいである。ではどうやって伊良湖岬へ行ったのか。

陸路を行くとなかなかたいへんである。ナビタイムによると、新幹線で名古屋、そこから豊橋駅へ行き、10分歩いて新豊橋駅、そこから豊橋鉄道渥美線で終点の三河田原駅まで行くことになる(約2時間)。そこはいまだ半島の真ん中辺であるから、残りはバスとなる。

海路が意外と近い。近鉄で鳥羽まで行く。そこから伊良湖岬までは伊勢湾を横断するフェリー便があり、1時間弱である。バス便より楽しそう。恩師もこちらのルートを選択したようだ。

伊良湖岬はまえまえから一度訪ねてみたかった。「笈の小文」で芭蕉が訪ねているから。

芭蕉には杜国という愛弟子がいた。当時、杜国は空米を売った罪で死刑になり、その後、罪一等を減じられ、渥美半島に島流しとなっていた(畠村→保美)。芭蕉はその弟子を慰めるために渥美半島を訪ねたのである(以下、引用は『芭蕉紀行文集』(岩波文庫)の「笈の小文」より)。

 三川の國保美といふ處に、杜國がしのびて有けるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋がへりて、其夜吉田に泊る。

 寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき

 あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也。

 冬の日や馬上に氷る影法師

伊良湖岬と伊勢の間の海上交通路は、古代、物流の重要な手段だったようで、伊良湖の窯で焼かれた瓦が伊勢や伊賀を経由して奈良に運ばれ、東大寺の瓦として利用されたのだそう。

伊良湖岬は万葉の時代から伊勢の一部をなす島(博多でいえば、能古島みたいな感じか)と考えられ、万葉の時代から島流しされる場所であったよう。このような歌のやり取りがある(万葉集)。

 天武4年(676年)天武朝の皇族で三位の麻続王が罪をえて伊良湖に流されたとき、里人が哀傷して

 打ち麻を麻続王海人なれや伊良虞の島の玉藻かります 

 王がこれに和して詠んだ歌

 うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈り食す

こうした故事などを踏まえて、「笈の小文」。

 保美村より伊良古崎へ壱里斗も有べし。三河の國の地つづきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に入られたり。

鷹(サシバ、ハチクマ)は渡り鳥で、春に来て、秋に南に渡るようだ。伊良湖は渡りの拠点となっていて、大規模な群れがみられるという。

 此渕崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云は鷹を打處なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし

 鷹一つ見付けてうれしいらご崎

いらご鷹など歌にもよめりとは、例によって西行の歌のこと。

 すたか渡るいらごが崎をうたがひてなほきにかくる山帰りかな

芭蕉の句にある鷹一つは、杜国を念頭においてのことらしい。いままでであれば、「男色か、気色わるい」という感じだった。しかし、最近は認識を改めなければならないと思うようになった。

若手弁護士らがLGBT差別解消に取り組んでいたり、LGBTの人たちが人口の10%を占めるという啓発広告をみるようになった。いままで迂闊な発言をしていないか反省することしきりである。

陸路だと遠いと思っていたところが、海路だと意外とちかい。LGBTも意外と身近なところにあるのだろう。