2022年12月14日水曜日

伊良湖岬と椰子の実と鷹とアサギマダラと日本人

 

 高校時代の恩師は、翌日雨のなか、椰子の実記念碑・歌碑を訪ねられたという。

記念碑・歌碑は島崎藤村作詞の「椰子の実」の歌を記念するもの。この歌、ご存じだろうか。

 ♪名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ

歌詞は実体験に基づく。しかし藤村のオリジナル体験ではなく、柳田國男の体験を拝借したものである。

柳田は大学生のころ身体を悪くして伊良湖崎で一ヶ月静養したことがあった。その際、海岸を散歩していて、椰子の実が流れて来るのを見つけたのだという。

東京に帰って近所に住んでいた藤村にその話をしたら、彼はすかさず「君、その話をぼくに呉れ給へよ」と言って、「椰子の実」を作詞したらしい。椰子の実が流れ着いたという旅先での一経験をもとに、誰もが感動する詩に見事にしたてあげたのである。藤村の詩人としての感覚と実力の確かさだろう。

柳田はこの経験が悔しかったのか、その体験を文章にしたほか、のちに『海上の道』を著わし、日本人は南方からやってきたという日本人起源論を公表している。藤村にせよ、柳田にせよ、すごい。海岸に漂着した椰子の実ひとつのエピソードから、自分の本業の業績に結び付けるのだから。

梅雨まえの季節になると、ミヤマキリシマが九重山や霧島連峰を赤く染める。植物学者の牧野富太郎博士は新婚旅行の際、これに目をとめ、ツツジの新種であることを鋭く見抜きミヤマキリシマと命名したという。

世に名を残した偉人たちは、日ごろの疲れを癒やすためにのんびり旅行をするなどという術(すべ)を知らないのだろうか。われわれ凡人たちにはできない荒技である。

さて、きのうは鷹(サシバ、ハチクマ)の渡りのことを書いた。海路、椰子の実が南の島から渡ってくるのであれば、空路、鷹が南の島から渡ってきても不思議ではない。鷹の渡りについて、西行の歌や芭蕉の句があることも昨日紹介した。

ところで、「鷹」は冬の季語、「鷹の渡り」は秋の季語である。ここで、あれ?っと思わないだろうか。

鷹は南の島から春に日本列島に渡ってきて、秋に南の島へ渡っていく。だからこそ、鷹の渡りは秋の季語であり、伊良湖岬では毎年9月から10月にかけてたくさんの鷹が南へ渡っていくのが観察できるのである。

そうなると、鷹は冬には列島にいないはず。なのになぜ、鷹は冬の季語なのか?グーグルさんに訊いてみると、俳人のかたでおなじようにあれ?と思った方がいた。でもその方も答えにたどりつかなかったようだ。

われわれにとって『冬の鷹』といえば、吉村昭の小説だ。江戸時代、前野良沢はオランダ語の解剖書を苦心惨憺のすえ「解体新書」に翻訳。如才ない杉田玄白の名が世間に売れる一方で、良沢は名を知られないまま孤高の晩年を貫く。

ということで、冬の季語としての鷹は、群れをなして暖かい南の島へ行ってしまう鷹ではなく、他の鷹がいなくなったあと、ひとり列島で孤高を貫く鷹の意味ではなかろうか。例句もそのような意味のようだ。

さらにところで、恩師の投稿によると、伊良湖崎はアサギマダラも渡ってくるそうだ。アサギマダラは蝶でありながら、秋に南西諸島・台湾に渡り、夏には逆コースを北上して、1500キロメートル以上も移動した個体もいるという。

九州の里山で目撃することもある。日本アルプスの稜線を多数が舞い飛んでいるところに遭遇したこともある。

九州人であるせいか、これまでばくぜんと沖縄、奄美、屋久島、九州、四国、中国、本州と島伝いに渡っているのだろうと思っていた。ところが、太平洋からダイレクトに伊良湖崎へ渡って来る個体もあるということらしい。なんというロマン。

小さい身体ながら渡りをしなければならないとはたいへんだ。とこれまで思っていた。しかしコロナ禍のなか思う。鷹やアサギマダラのやり方もリゾート的で、うらやましいと。冬は南の島で暮らし、夏は比較的温暖な列島ですごすのだから。

柳田説には批判もあるようだ。しかし、椰子の実や鷹やアサギマダラも大挙して渡ってくるのである。人類だって渡ってきたっておかしくない。

南から渡ってきた人類が日本人の起源にならなかったとすれば、その人たちの性格がおだやかだったので、北から来た陰険な人たちに攻め滅ぼされたせいかもしれない(あっ、それって、われらのご先祖さま?)。

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