写真は、FDAの飛行機で松本に向かう途中、名古屋上空から伊勢湾方面を望んだところ。左側手前が愛知県の知多半島、向こうが渥美半島。右側が三重県の志摩半島。
渥美半島の西の端(右端)に伊良湖岬がある。その向こう側が恋路が浜。志摩半島の先端は鳥羽。なお、知多半島の中央西にセントレア空港が浮かんでいる。
高校時代の恩師が伊良湖岬あたりを旅行中とSNSに報告していた。恩師は大阪住まいである。ではどうやって伊良湖岬へ行ったのか。
陸路を行くとなかなかたいへんである。ナビタイムによると、新幹線で名古屋、そこから豊橋駅へ行き、10分歩いて新豊橋駅、そこから豊橋鉄道渥美線で終点の三河田原駅まで行くことになる(約2時間)。そこはいまだ半島の真ん中辺であるから、残りはバスとなる。
海路が意外と近い。近鉄で鳥羽まで行く。そこから伊良湖岬までは伊勢湾を横断するフェリー便があり、1時間弱である。バス便より楽しそう。恩師もこちらのルートを選択したようだ。
伊良湖岬はまえまえから一度訪ねてみたかった。「笈の小文」で芭蕉が訪ねているから。
芭蕉には杜国という愛弟子がいた。当時、杜国は空米を売った罪で死刑になり、その後、罪一等を減じられ、渥美半島に島流しとなっていた(畠村→保美)。芭蕉はその弟子を慰めるために渥美半島を訪ねたのである(以下、引用は『芭蕉紀行文集』(岩波文庫)の「笈の小文」より)。
三川の國保美といふ處に、杜國がしのびて有けるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋がへりて、其夜吉田に泊る。
寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき
あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也。
冬の日や馬上に氷る影法師
伊良湖岬と伊勢の間の海上交通路は、古代、物流の重要な手段だったようで、伊良湖の窯で焼かれた瓦が伊勢や伊賀を経由して奈良に運ばれ、東大寺の瓦として利用されたのだそう。
伊良湖岬は万葉の時代から伊勢の一部をなす島(博多でいえば、能古島みたいな感じか)と考えられ、万葉の時代から島流しされる場所であったよう。このような歌のやり取りがある(万葉集)。
天武4年(676年)天武朝の皇族で三位の麻続王が罪をえて伊良湖に流されたとき、里人が哀傷して
打ち麻を麻続王海人なれや伊良虞の島の玉藻かります
王がこれに和して詠んだ歌
うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈り食す
こうした故事などを踏まえて、「笈の小文」。
保美村より伊良古崎へ壱里斗も有べし。三河の國の地つづきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に入られたり。
鷹(サシバ、ハチクマ)は渡り鳥で、春に来て、秋に南に渡るようだ。伊良湖は渡りの拠点となっていて、大規模な群れがみられるという。
此渕崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云は鷹を打處なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし
鷹一つ見付けてうれしいらご崎
いらご鷹など歌にもよめりとは、例によって西行の歌のこと。
すたか渡るいらごが崎をうたがひてなほきにかくる山帰りかな
芭蕉の句にある鷹一つは、杜国を念頭においてのことらしい。いままでであれば、「男色か、気色わるい」という感じだった。しかし、最近は認識を改めなければならないと思うようになった。
若手弁護士らがLGBT差別解消に取り組んでいたり、LGBTの人たちが人口の10%を占めるという啓発広告をみるようになった。いままで迂闊な発言をしていないか反省することしきりである。
陸路だと遠いと思っていたところが、海路だと意外とちかい。LGBTも意外と身近なところにあるのだろう。
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