2022年12月27日火曜日

文楽「曲輪文章 吉田屋の段」


 アバターのつぎは、博多座で文楽(人形浄瑠璃)公演の鑑賞。作品は「端模様夢路門松(つめもようゆめじかどまつ)」と「曲輪文章(くるわぶんしょう)吉田屋の段」。

文楽はまたの名を人形浄瑠璃という。文楽は三業といって、太夫、三味線、人形遣いの3つの専門職でなりたつ。博多座に行けばわかるが、舞台上では人形芝居が、舞台右手に張り出した床上では太夫が浄瑠璃の詞章を語り、三味線が音楽を伴奏している。

人形芝居は世界中にあるようだ。文楽の特徴は3人遣いのものがあるということ。この点は世界に類例がないようだ。

映画「アバター」は、アバターを介して異世界に入り込み、人間とは何か、人生とは何かを問う映画である。文楽の人形も、江戸時代のアバターのようなものだ。

文楽の人形は主役級と端役級にわかれ、主役級の人形は3人で遣うが、端役級は1人で遣う。その人形のことを「つめ人形」と呼ぶ。このことが「端(つめ)模様夢路門松」の話の背景になっている。

門松という名のつめ人形が3人遣いにあこがれていた。ある日夢がかなって3人遣いの人形になれた。が、はたしてそれによって幸せになれるのだろうか。♪べんべん。

文楽の作品はほぼ悲劇。唯一といえる例外が「曲輪文章 吉田屋の段」なのだとか。そのため、年末年始の公演によくつかわれているのだそう。

ところで「文章」は文を偏とし、章をつくりとする一字で表される。しかし実際にはそのような漢字はない。文楽のタイトルは奇数でなければならないというシバリがそうさせている。そのため歌舞伎では「廓文章」と表記されている。むかしの人たちは縁起の善し悪しにしばられ、奇数を好んだのだろう。

豪商藤屋の跡取り息子伊左衛門は無駄づかいがたたって勘当中の身。歳末、もちつきなどで慌ただしいなか、大阪・新町の揚げ屋である吉田屋に伊左衛門が尋ねてくる。

彼の目当ては扇屋の遊女・夕霧。夕霧といえば源氏物語だろうけれども、ここでは実在した遊女。姿美しく芸事に秀でた名妓だったが27歳で亡くなった。美人薄命。その死を惜しみ、追悼作品がいくつも作られた。本作もその一つ。

文楽で1人遣いに飽き足らず3人遣いとなったのは、人の動きのリアリティーを追求するためだったろう。3人のうち2人は黒子(パペットマペット)だから、なんとか頭のなかで消去できる。

残る1人は黒子でもなく、一人の男性として立ち居振る舞っている。その存在感は考えようによっては舞台上でじゃまになる。しかしいつしか夕霧がまるで生きているように動き出し、そのさまに心打たれるのである。

ストーリーはとくになく、2人の痴話げんかが続き、伊左衛門の勘当が解かれる報せが届き、ハッピーエンドに。よく分からないけど、祝賀ムード。♪べんべん。

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