(落柿舎)
(大峰山)
(熊野)
二日戻って、LGBT。LGBTに帯する理解が深まると、作品解釈にも差が出るのかもしれない。というわけで、きょうは「嵯峨日記」。
二日前のブログで、笈の小文の旅で、芭蕉が島流しにあっていた愛弟子・杜国を慰めに訪問したこと、芭蕉と杜国の間に男色説があること、従来はそこで思考停止していたけれどそれではいけないと反省をしていることなど書いた。
杜国のことは「嵯峨日記」にもでてくる(杜国は前年亡くなった。)。
廿八日
夢に杜國が事をいひ出して、涕泣して覚む。
夢に杜國が事をいひ出して、涕泣して覚む。
心神相交わる時は夢をなす。陰尽きて火を夢見、陽衰えて水を夢みる。飛鳥髪をふくむ時は飛るを夢見、帯を敷寝にする時は蛇を夢見るといへり。睡枕記・槐安國・荘周夢蝶、皆其理有りて妙をつくさず。我夢は聖人君子の夢にあらず。終日忘想散乱の気、夜陰夢又しかり。誠に此ものを夢見ること、所謂念夢也。我に志深く伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労をともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時はたはぶれ、ある時は恋しび、其志我心裏に染て、忘るることなければなるべし。覚て又袂をしぼる。
「嵯峨日記」は、元禄四年4月18日から5月4日まで、芭蕉が京都嵯峨野にある落柿舎に滞在したときの日記である。いままで、ぼんやりと小中学生の日記のように読んでしまっていた。しかし、杜国への愛惜の念を中心に置くと、起承転結で読めると思う。
まず起。嵯峨野や落柿舎の紹介。嵯峨野は「平家物語」にもでてくる。高倉天皇に愛されたがゆえに平清盛から迫害された小督が隠れ住んだ場所である。芭蕉のなかでは、空米売買の罪を問われた杜国とダブっているのかもしれない。
小督が隠れ住んだ嵯峨野も、いまは竹林が残るのみ。
うきふしや竹の子となる人の果
むかしは豪勢だった(料理場なども広い!)落柿舎も、いまや所々頽破している。
柚の花や昔しのばん料理の間
つぎに承。落柿舎は京都郊外にあるものの、入れ替わり立ち替わりお弟子さんたちが訪ねてきたり、その消息がもたらされる。表面的、芭蕉の生活はにぎやかなようだが、なぜか心中は淋しい。
そして転。さきの28日の記述。
その後、結。
二日。
曽良来りてよし野の花を尋ねて、熊野に詣侍るよし。
武江旧友・門人のはなし、彼是取まぜて談ず。
くまの路や分つつ入ば夏の海 曽良
大峰やよしのの奥を花の果
笈の小文の旅で、芭蕉と杜国は吉野山まで行き、楽しんでいる。
よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠
よし野にて我も見せふぞ檜の木笠 万菊丸(杜国)
曽良の旅はそこから先。吉野山から大峰奥駆け道(世界遺産)を通り、大峰山を経由して熊野に至る。夏の海は熊野灘である。中近世、熊野から海へ向けて補陀落渡海がおこなわれていた。
補陀落は、観音菩薩が降臨する伝説上の山であり、熊野の先にあるとされた。補陀落渡海は、行者が沖にこぎ出し、108の石をまきつけて捨身することである。
平家物語のなかでも、一ノ谷の戦に敗れた平維盛が戦列を離れて熊野へ行き、補陀落渡海(入水自死)したことが描かれている。
平家物語の小督の話ではじまった「嵯峨日記」である。曽良から熊野詣の話を聞かされながら芭蕉の頭に去来していたのは維盛の補陀落渡海のことであろう。補陀落渡海こそが「花の果」と意識されたことだろう。
一、四日
宵に寝ざりける草臥に終日臥。昼より雨止む。
明日は落柿舎を出んと名残をしかりければ、奥・口の一間一間を見廻りて、
五月雨や色紙へぎたる壁の跡 (「嵯峨日記」はここまで。)
杜国亡きあとの芭蕉の心には、五月雨がふりつづき、心中、色紙へぎたる壁の跡のようだったろう。かくて起承転結。
ところで、「嵯峨日記」をおさめた岩波文庫の『芭蕉紀行文集』。その表紙の文章をあらためて読んで、はっとした。
人生の本質を無情・流転に見た芭蕉(1644-1694)の芸術と生涯は、幾つかの旅を展開点として飛躍を遂げてゆく。肉体と精神を日常の停滞から解き放ち、新たな発見に直面させてくれるもの、それは旅であり、芭蕉の人生観・芸術観の具体的吐露が紀行文であった。
はっとした理由は、それぞれ考えてくだされ。それではまた。
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