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2023年6月14日水曜日

笈の小文(2)椰子の実


  というわけで、『笈の小文』は何度か読んでいたのだけれど、いま一つ浸りきれないと思っていた。芭蕉が自分で書いたものかどうか分からないし、未定稿だし、『おくのほそ道』に比べて地の文が少なく、はなはだ読みにくいのである。

『笈の小文』に出てくる土地々も、『おくのほそ道』に比べると、発句が1句あるきりで地の文がなかったりする。伊良湖崎も、そういう意味で字面では理解しつつも、抽象的な存在であった。

ところが昨年末、恩師がここを訪ねたとSNSに投稿された。そして島崎藤村の「椰子の実」の歌碑も見学されたという。

藤村は『夜明け前』を書いたあの藤村である。藤村の「椰子の実」の歌はこう。

 名も知らぬ遠き島より
 流れ寄る椰子の実一つ
 故郷の岸を離れて
 汝はそも波に幾月
 旧の木は生いや茂れる
 枝はなお影をやなせる
 われもまた渚を枕
 孤身の浮寝の旅ぞ
 実をとりて胸にあつれば
 新なり流離の憂
 海の日の沈むを見れば
 激り落つ異郷の涙
 思いやる八重の汐々
 いずれの日にか国に帰らん

先に書いたとおり、伊良湖崎は本州の南端。南の国から鷹も渡ってくれば、椰子の実も渡ってくるのである。もしかすると、アサギマダラも渡ってくるかもしれない。

先日「ブラタモリ」で、種子島をやっていた。種子島には世界最大規模の海流である黒潮が南からやってくる。戦国時代、種子島銃を舶載したポルトガル船がやってきたのも、黒潮に流されてのことだという。

日本には南からいろんなものや文化がやって来るのだ。藤村はそれをきわめてロマンチックに歌っている。

しかしである。藤村はわがことのように歌っているが、実は椰子の実を見つけたのは、学友だった柳田國男である。柳田國男は『遠野物語』を書いたあの柳田國男。藤村は柳田から聞いた話を歌にしたてた。いまふうに言えば、藤村は柳田の経験をパクったのである。しかし、ここまで立派な歌になると、単なるパクリとはいえない。

話を戻すと、恩師の投稿をきっかけに、俄然、頭のなかを鷹や椰子の実やアサギマダラらが行き交い、伊良湖岬という名が生き生きと脈打つようになった。

かくて、旅好きとしては、是非一度尋ねてみたいと思うようになった。『笈の小文』をいま読み返している理由は、そういうことである。

2022年12月14日水曜日

伊良湖岬と椰子の実と鷹とアサギマダラと日本人

 

 高校時代の恩師は、翌日雨のなか、椰子の実記念碑・歌碑を訪ねられたという。

記念碑・歌碑は島崎藤村作詞の「椰子の実」の歌を記念するもの。この歌、ご存じだろうか。

 ♪名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ

歌詞は実体験に基づく。しかし藤村のオリジナル体験ではなく、柳田國男の体験を拝借したものである。

柳田は大学生のころ身体を悪くして伊良湖崎で一ヶ月静養したことがあった。その際、海岸を散歩していて、椰子の実が流れて来るのを見つけたのだという。

東京に帰って近所に住んでいた藤村にその話をしたら、彼はすかさず「君、その話をぼくに呉れ給へよ」と言って、「椰子の実」を作詞したらしい。椰子の実が流れ着いたという旅先での一経験をもとに、誰もが感動する詩に見事にしたてあげたのである。藤村の詩人としての感覚と実力の確かさだろう。

柳田はこの経験が悔しかったのか、その体験を文章にしたほか、のちに『海上の道』を著わし、日本人は南方からやってきたという日本人起源論を公表している。藤村にせよ、柳田にせよ、すごい。海岸に漂着した椰子の実ひとつのエピソードから、自分の本業の業績に結び付けるのだから。

梅雨まえの季節になると、ミヤマキリシマが九重山や霧島連峰を赤く染める。植物学者の牧野富太郎博士は新婚旅行の際、これに目をとめ、ツツジの新種であることを鋭く見抜きミヤマキリシマと命名したという。

世に名を残した偉人たちは、日ごろの疲れを癒やすためにのんびり旅行をするなどという術(すべ)を知らないのだろうか。われわれ凡人たちにはできない荒技である。

さて、きのうは鷹(サシバ、ハチクマ)の渡りのことを書いた。海路、椰子の実が南の島から渡ってくるのであれば、空路、鷹が南の島から渡ってきても不思議ではない。鷹の渡りについて、西行の歌や芭蕉の句があることも昨日紹介した。

ところで、「鷹」は冬の季語、「鷹の渡り」は秋の季語である。ここで、あれ?っと思わないだろうか。

鷹は南の島から春に日本列島に渡ってきて、秋に南の島へ渡っていく。だからこそ、鷹の渡りは秋の季語であり、伊良湖岬では毎年9月から10月にかけてたくさんの鷹が南へ渡っていくのが観察できるのである。

そうなると、鷹は冬には列島にいないはず。なのになぜ、鷹は冬の季語なのか?グーグルさんに訊いてみると、俳人のかたでおなじようにあれ?と思った方がいた。でもその方も答えにたどりつかなかったようだ。

われわれにとって『冬の鷹』といえば、吉村昭の小説だ。江戸時代、前野良沢はオランダ語の解剖書を苦心惨憺のすえ「解体新書」に翻訳。如才ない杉田玄白の名が世間に売れる一方で、良沢は名を知られないまま孤高の晩年を貫く。

ということで、冬の季語としての鷹は、群れをなして暖かい南の島へ行ってしまう鷹ではなく、他の鷹がいなくなったあと、ひとり列島で孤高を貫く鷹の意味ではなかろうか。例句もそのような意味のようだ。

さらにところで、恩師の投稿によると、伊良湖崎はアサギマダラも渡ってくるそうだ。アサギマダラは蝶でありながら、秋に南西諸島・台湾に渡り、夏には逆コースを北上して、1500キロメートル以上も移動した個体もいるという。

九州の里山で目撃することもある。日本アルプスの稜線を多数が舞い飛んでいるところに遭遇したこともある。

九州人であるせいか、これまでばくぜんと沖縄、奄美、屋久島、九州、四国、中国、本州と島伝いに渡っているのだろうと思っていた。ところが、太平洋からダイレクトに伊良湖崎へ渡って来る個体もあるということらしい。なんというロマン。

小さい身体ながら渡りをしなければならないとはたいへんだ。とこれまで思っていた。しかしコロナ禍のなか思う。鷹やアサギマダラのやり方もリゾート的で、うらやましいと。冬は南の島で暮らし、夏は比較的温暖な列島ですごすのだから。

柳田説には批判もあるようだ。しかし、椰子の実や鷹やアサギマダラも大挙して渡ってくるのである。人類だって渡ってきたっておかしくない。

南から渡ってきた人類が日本人の起源にならなかったとすれば、その人たちの性格がおだやかだったので、北から来た陰険な人たちに攻め滅ぼされたせいかもしれない(あっ、それって、われらのご先祖さま?)。