2023年6月9日金曜日

笈の小文(1)伊良湖岬

 
(松本へ向かう飛行機の窓から。中央は伊勢湾、その向こうは太平洋。右側の陸は手前から松坂、伊勢、鳥羽。左側の陸は手前からセントレア空港、知多半島、三河湾の向こうに渥美半島。渥美半島の先端が伊良湖岬)

 芭蕉の紀行文に『笈の小文(おいのこぶみ)』がある。『おくのほそ道』の旅にでかける2年前、江戸から故郷の伊賀へ帰る里帰りの旅である。

里帰りだけでなく、関西各地の歌枕をめぐり、最後は須磨までの紀行文である(実際の旅は、その後、関西の旅、更科紀行の旅を経て江戸に帰るまで続く)。

芭蕉の死後15年も経ってから、弟子の乙州(おとくに)が出版したもの。そのため、分からないことも多い。

未定稿。芭蕉の発句や俳文で構成されていることは疑えないけれども、乙州の手がどの程度入っているのか、編集がなされているのか謎である。

この紀行をいま読み返している。そのいきさつはこう。

『笈の小文』は、冒頭の記述のあと、なぜか、名古屋の鳴海からはじまる。箱根も富士も遠江(浜名湖)も描かれない。

鳴海から、芭蕉は三河の国保美という處に二十五里戻る。保美は渥美半島の先端にちかい。写真でいうと、左上のほう、左から矢のように突き出ているのが渥美半島。その鏃(矢尻)の中央部分に保美はある。

100キロであるから25時間かかる。ナビで検索してみたところ、やはり99.6キロ。一日50キロ歩いても、まる2日かかる行程である。

旅の途中でなぜ100キロも後戻りしたかというと、愛弟子の杜国が罪人としてそこに流されていたから。杜国の罪は米の空売りである。

かれは裕福な米穀商だったが、在庫がないのに売るのは行きすぎ。ある種の詐欺である(現在では、流通が発達しているので、すべてが犯罪というわけではない。先物取引などは、いまだ実在しない商品の売買をあらかじめ行っている)。

「笈の小文」を読めば分かるが、ふたり旅のあいだ、芭蕉はとてもはしゃいでいて、単なる師弟関係以上のものがあったといわれる。恋人が罪をえて失意の底にあるときけば、彼を慰めるのに100キロの道のりもなんのその。

かれらは、伊良湖岬を訪れている。保美からわずか一里ばかり。1時間ほどの行程である。

天武朝の皇族麻績王(おみのおおきみ)は伊良湖に流されている。古くから流刑地だったようだ。その歌。

 うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良湖の島の玉藻刈り食す

伊良湖岬は、三河の国の地つづきなのだけれども、万葉集では伊勢の名所に選ばれている。なぜか。写真を見ればわかるとおり、船便なら近いからである。

紀伊半島を度外視すれば、本州の南端に位置している。そのため、秋には南から鷹が渡ってくる。鷹は冬の季語だが、鷹渡るは秋の季語である。

西行の歌がある。伊勢で詠んだという。

 巣鷹わたる伊良湖が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな

巣鷹は飼育された鷹のこと。臆病なので、木に戻ってしまう。芭蕉らは、麻績王や西行の歌は当然知っていた。

罪人の杜国はもちろん、芭蕉も心細い気持ちだったろう。そこで詠んだ句。

 鷹一つ見付てうれしいらご崎

もちろん、鷹とは杜国のことである。

冬の鷹といえば、吉村昭に同名の小説がある。Amazonの解説によればこう。わずかな手掛かりをもとに、苦心惨憺、殆んど独力で訳出した「解体新書」だが、訳者前野良沢の名は記されなかった。出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に、彼は終始地道な訳業に専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死する・・。

100年後に苦労したこちらの冬の鷹も世渡りが下手だったのだろう。吉村昭の小説は、新潮文庫の100冊に選ばれていたので、読んだのだったと思う。残念ながら、さいきんは選に漏れているようだ。はやらないのだろうか。

                                    (つづく)

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