2023年6月20日火曜日

笈の小文(5)源氏物語か平家物語か

 


 『笈の小文』と秋の関係について、もう一つの考えは『笈の小文』には秋の景を描ききれなかったということが考えられる。

それは弟子の乙州が芭蕉の死後、『笈の小文』と『更科紀行』をセットで出版したことにあらわれている。

『笈の小文』の旅と『更科紀行』の旅は、実際には同じ旅。すなわち江戸を出発し、故郷の伊賀で年を越し、流刑中の杜国と関西の歌枕を旅し(京都で別れ)、さらに名古屋から木曾谷を経て信州更科で月見をして江戸に帰るという旅である。

旅行記であれば、一つのストーリーで完結したはず。しかし創作を含む紀行なので、芭蕉のなかで迷いがあったのではなかろうか。最後まで迷いは解決せず、未定稿のまま残されたのではなかろうか。

その迷いは、『更科紀行』を合体した構成にするのか、分離した構成にするのか。合体させれば、冬、春、夏ときた『笈の小文』の旅は秋で完結することになる。しかし、そうすることを憚らせる事情があった。

『笈の小文』は単なる四季の旅の記録ではない。愛する杜国との逃避行の旅の記録でもある。伊良湖岬で出会い、伊勢で合流した二人は、吉野の桜を愛で、関西の歌枕を尋ね、須磨・明石を経て、京都で別れる。

むかしある少年Aの付添人をしたことがあった。成人と異なり、少年には試験観察という中間処分がある。そのまま最終処分をすれば少年院送致になるのだが、がんばれば立ち直れるのではないかという少年用の処分。

試験観察には家庭でおこなうものだけでなく、家裁が委託した仕事先でおこなうもの(補導委託)がある。少年Aは筑後地区で仕事を提供する補導委託先に半年ほど預けられた。

ところが、しばらくして彼は補導委託先から逃げ、当職のもとを訪ねてきた。もう18時を過ぎていた。追い返すわけにもいかない。家庭裁判所(当直)にはその旨一報を入れた。

とりあえずその日は近くのホテルのツインの部屋を借りて、ふたりして宿泊した。そして翌朝、家裁にあらためて連絡した。

家裁では大騒動に発展していた。ま、非行少年が逃亡したわけだから、逃亡罪という犯罪である。当職も下手をすると、その援助罪が成立する可能性があった。家裁からはきつくお叱りを受けた。

流刑中の杜国と芭蕉の旅を読むと、いつもこの事件のことを思い出す。芭蕉たちは、つかまれば大罪を問われる覚悟をしていただろう。愛の逃避行である。

関西各地の歌枕を旅した芭蕉たちは須磨までやってきた。目の前は明石海峡を経て淡路島。明石海峡は須磨と明石を左右に分けている。いわく。

 淡路島手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左にわかる。呉楚東南の詠もかゝる所にや。物しれる人の見侍らば、さまゞの境にもおもひなぞらふるべし。

呉楚東南の詠とは、むかし漢詩でならった杜甫の「登岳陽楼」である。いわく。

 昔聞く洞庭水、今上岳陽楼、呉楚東南折、乾坤日夜浮

芭蕉たちは、地形的に、大きな岐路に立っていた。文学的にも岐路に立っていた。源氏物語路線か平家物語路線かである。

源氏物語では罪を得た源氏は須磨で流寓したのち、明石で罪をあかして都へ帰っていく。平家物語では、平家の公達や女房たちの多くはここで滅亡してしまう。

芭蕉は、実際の旅でも、『笈の小文』の筆のうえでも、ここで迷ったのではなかろうか。そのすえ、平家物語の滅亡のイメージが優勢となり、杜国と分かれる決心をすることになったと思われる。

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