2023年6月16日金曜日

笈の小文(4)わびさび

(明石海峡)

 『笈の小文』には、四時を友とすといいつつ、秋が描かれていない。それはヘミングウェイがいうところ「氷山の理論」による省筆によるものである。と書いた。こう書くと、ヘミングウェイは芭蕉より300年くらい後の人であるから、ちがうのではないかという意見もあろう。

しかし俳句という文芸そのものが、ある意味「氷山の理論」によってつくられている。「氷山の理論」とはこうだった。

もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、氷面下に隠された八分の七の部分に存するのだ。

そもそも俳句のばあい、五七五の17文字でつくらなければならないという制約がある。小説のように、言葉を尽くして、すべてを描ききることはできない。

17文字であれば、氷面上の部分だけしか描写できない。氷面下に隠された八分の七の部分は読者の想像にゆだねるほかない。

もちろん『笈の小文』は紀行文であるから、小説のように書くこともできたであろう。しかし芭蕉の頭のなかでは句作とおなじ意識がはたらいていたのではなかろうか。

芭蕉の俳句には「わびさび」の精神があるといわれる。わびさびとは、質素なものにこそ趣があると感じる心や、時の経過によってあらわれる美しさをいう。それは以下の代表句にあらわれている。

 古池やかわずとびこむ水の音

 閑さや岩にしみ入る蝉の声

紀行文も、「わびさび」の精神で書くとき、もっとも大事な部分を省筆して、読者の想像にゆだねることになる。

一番の例は『おくのほそ道』の松島の段。松島(の月)は『おくのほそ道』の旅のクライマックスである。しかるに、芭蕉は句をつくっていない・・ことになっている。

 松島やああ松島や松島や

人口に膾炙しているが、偽作。

 島々や千々に砕けて夏の海 (「蕉翁句集」)

実際にはこの句を詠んだ。しかし『おくのほそ道』では、松島のあまりの素晴らしさに詠めなかったことになっている。いわく。

 ・・その気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはやぶる神の昔、大山祇のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽くさむ。・・予は口を閉じて眠らんとしていねられず。・・

『おくのほそ道』は冒頭、「松島の月まづ心にかかりて」にはじまる。こうして読者の期待をさんざんじらしたうえで、クライマックスでの省筆。読者のイメージは爆発せざるをえない。

『笈の小文』でも、クライマックスは吉野の桜である。ここでも芭蕉は実際には句を詠んでいる。

 花ざかり山は日ごろのあさぼらけ

しかしやはり『笈の小文』では句が詠めなかったことになっている。いわく。

 よしのゝ花に三日とゞまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、・・われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとじたる、いと口をし。おもひ立たる風流、いかめしく侍れども、爰に至りて無興の事なり。

こちらも出発にあたり、「そゞろにうき立つ心の花の、我を道引枝折となりて、よしのゝ話におもひ立んとするに」とか、「よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠」などと読者の期待をあおっている。そうして読者の期待を十二分にふくらませたうえ、クライマックスでのストイックな省筆。読者のイメージは爆発せざるをえない。

おなじようにして、芭蕉は『笈の小文』の秋を描かなかったと考えることはできよう。

※そういえば、芭蕉とヘミングウェイは似ている気がする。

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