十一日、瑞巌寺に詣づ。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎、出家して入唐、帰朝の後開山す。
瑞巌寺といえば、われわれが小学生のときは、音楽の副読本により、民謡「斎太郎節」を習いました。♪エンヤードット 松島~の 瑞巌寺ほどの 寺もない~という。ドリフターズがアレンジしたやつです。いまはもう習わないのでしょうか。
いま瑞巌寺は、奥州平泉の中尊寺、毛越寺、出羽の立石寺とともに「四寺回廊」という観光・巡礼コースになっています。
このあたりのお寺はだいたい慈覚大師・円仁が創建したとされています。円仁は最澄のあとをついだ天台宗の高僧で、上記四寺はみな円仁の創建と伝えられています。
ところが瑞巌寺は現在、臨済宗のお寺。黒羽の雲巌寺、京都の妙心寺や博多の聖福寺などとおなじです。あれれ。いつのまに。
瑞巌寺はもともとは天台宗だったところ、鎌倉時代のなかごろ、臨済宗になっています。その際の開山が芭蕉のいう真壁の平四郎あらため法身禅師です。
時代は5代執権・北条時頼のとき。かれは、水戸黄門のモデルになった人で(つまり、水戸光圀本人は諸国を漫遊するような人ではなかった)、諸国を旅して民情視察を行ったという廻国伝説があります。
能『鉢木』の題材にもなっていて、日本史の教科書にコラムで紹介されていました(ご恩と奉公の封建関係を示す逸話として)。いまはどうでしょう。北鎌倉などを散策していると、精進料理屋の看板に見かけますが。
ある雪の日、旅の僧が上州で難渋して、貧乏武士である常世の家に宿を請いました。常世は、たいせつにしていた梅、桜、松の鉢の木を薪にして暖をとり、貧しいながらできるかぎりのもてなしをします。そして零落し貧しくとも鎌倉武士のはしくれとして、「いざ、鎌倉」のときは鎌倉にはせ参じるつもりだと話します。
後日、関東武士団に鎌倉集合の号令がかかりました。集まった武士のなかに、痩せ馬に乗った常世の姿もありました。旅僧はじつは北条時頼。水戸黄門でいえば「ええい、ひかえ、ひかえい。ここにおわすはどなたとこころえる・・。」の場面です。時頼は常世の奉公に対し、梅、桜、松の名のつく領地を与えます。
この時頼が瑞巌寺あたりを廻国した際、法身に命じて、天台宗から臨済宗にあらためさせたのだとか。中世ですからお寺も領主さま、時頼としては自分の息のかかった寺にしたかったのでしょうね。
ところで『鉢木』の名台詞のなかに「松はもとより煙にて、薪となるも理や」というのがあります。それが江戸時代、徳川家=松平氏に遠慮して、「松はもとより常磐にて、薪となるは梅桜」と変えられていたとか。
江戸時代の人たちは、言葉や名前を大切にし、言霊とかも信じていたのでしょうね(もちろん、言論の不自由もあったでしょうが)。ここらあたりに、松尾・芭蕉が松や松島がだいすきだった理由の一端があったのでしょう。この線で行くと、彼は松の尾、徳川=松平の隠密だったという説の傍証にもなりそうです。ははは。
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