2021年7月5日月曜日

こがね花咲く・石の巻

 

 十二日、平泉と志し、姉歯の松・緒絶えの橋など聞き伝へて、人跡まれに、雉兎蒭蕘の行きかふ道そことも分かず、つひに道ふみたがへて石の巻といふ港町に出づ。「こがね花咲く」と詠みて奉りたる金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。

芭蕉一行は、松島から平泉をめざしました。途中、姉歯の松、緒絶えの橋などの歌枕を尋ねようとしたものの、道に迷ってしまい、あやまって石の巻についてしまったというのです。ほんとうでしょうか。

『曽良随行日記』によると、実は迷ってはいないらしい。ではなぜ真実のとおり書かなかったのか。人から、姉歯の松はどうでした?緒絶えの橋はどうでした?と訊かれたときに、道に迷いましてな・・・というかんじでしょうか。

ともあれ、芭蕉らは石の巻にある日和山にのぼったらしい。日和山は漁港であればたいがいどこにでもあり、観天望気(天気予報)をするために登る小高い山です。日和見主義とかいうばあいの日和見です。

そこから、まず「こがね花咲く」と詠みて奉りたる金華山が見えたといいます。この歌を詠んだのは、松島夜泊で予告した大伴家持です。

大伴家持は、西鉄を毎日走っている旅人の子で、万葉集を編んだといわれています。この歌を詠んだ当時は、越中の国司(富山県知事)。おくのほそ道の後半、奈呉の浦を訪れたときにまたまた登場する予定です。

家持が歌を詠んで奉った相手は聖武天皇。当時、奈良の大仏を建立の途中でした。そして、仕上げのお化粧をする黄金が手に入らないなあと困ってありました。

するとなんというグッドタイミング、奥州のほうから黄金が見つかっりましたぞ~と献上されてきたのでした。

いまの大仏さまを見て金でコーティングされていたといわれてもピンときませんが、光背や脇侍を見ればいまでも金キラキンです。

黄金の献上を祝して元号は天平から天平感宝へ変更。家持の歌もこれを祝したものです。もちろん万葉集歌。

 すめろきの御代栄えむとあづまなる みちのく山に黄金華咲く

芭蕉は『野ざらし紀行』『笈の小文』の旅で奈良をたびたび訪れ、二月堂のお水取りにも参加していますが、大仏についての記述はありません。芭蕉の美的感覚にあわなかったのかなあと思いましたら、当時は松永久秀(吉田剛太郎@麒麟が来る)が焼いてしまって復興まえだったよう。

奥州の黄金は、奥州藤原氏の繁栄の源泉でもありました。平泉の金色堂は奥州で金が産出されていたことの象徴です。芭蕉があえて道迷いしたわけは、平泉をまえにこうした効果をだすためだったのかもしれません。

金華山は恐山、出羽三山とともに奥州三霊場の一つ。三年続けてお参りすれば一生お金に困ることはないそうです。

ところがなんと、金華山は石の巻からは見えません。金華山は牡鹿半島の東北に位置していて、半島にじゃまされて見えないのです。それを心の目で見てしまう、いや見えてしまったほうがより効果的、芭蕉はそう考えたのでしょう。

「金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。」という部分は、やはり舒明天皇の万葉集歌を本歌ないし俤にしていますかね。

 大和には群山あれどとりよろふ、天の香具山登り立ち国見をすれば、国原は煙立ち立つ、海原は鴎立ち立つ、うまし国ぞ蜻蛉洲大和の国は

ところで石の巻は石ノ森章太郎の故郷です。いまの人なら『仮面ライダー』、ぼくらの世代なら『サイボーグ009』の作者。石の巻→石ノ森、めちゃ覚えやすいです。

古代のみならず現代のヒーローをもうみだした石の巻、とりわけお金に困らなくなる金華山、道迷いしてでも行きたいところです。

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