春風や闘志抱きて丘に立つ 高浜虚子
顧問会社からお誘いを受け、春の社員旅行に同行させてもらう予定である。行き先は四国は愛媛松山。松山での訪問先について打合せに余念がない。
いま松山といえば、やはり夏井いつき先生にお目通りねがいたい。が、お忙しいようだから、正岡子規の記念館でも訪ねようかと思う。
子規は明治期、松山出身で、俳句の中興の祖である。芭蕉ののち俳句の世界は停滞していた。それを芭蕉に帰ることで刷新した。
時代は明治であるから自然科学の伸張著しく、俳句の世界でも自然主義が浸透しやすかったのだろう。つまりは「写生」「写実」。
子規は元来ホトトギスの意である。ホトトギスは口の中が赤い。子規は結核を患い、喀血していた。そこからの雅号である。覚悟と凄みが感じられる。
子規には二人の高弟がいた。高浜虚子と河東碧梧桐。子規を玉とすれば、飛車・角のような存在である。虚子と碧梧桐は非常に仲がよく、寝食をともにした。虚子が子規に師事して俳句を学んだのは碧梧桐の誘いによる。
ところが虚子は、碧梧桐のもと婚約者と結婚した。いまでいえば略奪愛。しかも碧梧桐が入院中に仲よくなったらしい。碧梧桐は、入院中に婚約者と友情を同時に失った。心痛いかばかりであったか。
そのせいかどうかは分からないが、二人は流派を違えるようになった。虚子は季語(季題)と五七五という詩形のしばりをどこまでも重んじた。これに対し、碧梧桐はこれらの拘束をきらい、自由な詩作を提唱するようになった。
略奪愛が原因であれば、虚子が自由を、碧梧桐が拘束を主張しそうなものだ。しかし俳句の世界では逆の立場になった。
虚子は、碧梧桐の新傾向俳句との対決を表明。つぎの句を詠んだ。
春風や闘志抱きて丘に立つ
そして『俳句の作りよう』(角川文庫)に、こう述べている。
近来俳句についての拘束を打破してかかることを主張するものがありますが、・・・私は十七字、季題という拘束を喜んで俳句の天地におるものであります。この拘束あればこそに俳句の天地が存在するのであります。・・狭いはずの十七字の天地が案外狭くなくなって、仏者が芥子粒の中に三千大千世界を見出すようになるのであります。
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