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2021年7月16日金曜日

平泉(3)-光を求めて

 

(経堂)


(光堂の旧覆堂)


(光堂@新覆堂前にて)

 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、珠の屏風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢になるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、しばらく千歳の記念とはなれり。

 五月雨の降り残してや光堂

光堂は中尊寺金色堂。数字の列挙がリズミカル。そして高館のくだりとの暗/明の対比が鮮やか。

 ・・・功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡

かたや時が移るなか草むらとなってしまい、かたやいまも黄金色に燦然と光輝いている。流行と不易。かたや戦の結果、かたや仏教による平和希求の結果。長い長い梅雨の五月雨さえ、光堂を避けて通ったのだろうか。

光堂は柳之御所から北西の山上に光輝いて見えていたという。石の巻の金華山、金鶏山につづき光堂。「光」は奥州藤原三代が祈念して求めた平和の象徴なのでしょう。わが事務所も、五月雨が降り残しますように。

2021年7月14日水曜日

平泉(1)ー邯鄲の夢


 (平泉・柳之御所跡。背景に金鶏山)

 きのう、わが事務所の仲間であった落合真吾くんの墓参りに行ってきました。平成24年7月12日が命日、31歳でした。お墓を水で浄め、花を捧げ、線香をたき、冥福を祈りました。

かれは、福岡地裁における最初の裁判員裁判を先進的に引き受けるなど弁護士として有能であったことはもちろん、お客さんだけでなく事務所スタッフにも心配りができるなど、すぐれた人でした。ほんとうに惜しい人をなくしました。

当ブログもかれがはじめてくれました。すこしめんどうくさいですが、過去ログを2010年6月17日までさかのぼれば「ブログ始めました。」という照れ気味の挨拶をきけることでしょう。

花を捧げて死者を追悼する人類の行為は1万2,000年前まで遡ることができるそうです。われわれはなぜ死者を追悼するのでしょうか。

おくのほそ道の旅の大きな目的の一つは、悲劇の死をとげた義経、奥州藤原氏らを弔うこと、すなわち鎮魂にありました。ようやくその目的地である平泉に到着しました。

 三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。

清衡、基衡、秀衡と三代つづいた奥州藤原氏の栄耀栄華もあっという間、夢のよう。一睡は一炊。お能に『邯鄲』というのがあります。学校でも「邯鄲の夢」もしくは「邯鄲の枕」という言葉を習ったと思います。人の栄枯盛衰は所詮夢にすぎないという言葉です。

ある若者がわずかな畑を耕すだけの人生に疑問を抱き、田舎をでて都をめざして邯鄲に。そこで出会った導師に夢が叶う枕を授けられました(魔法のランプのよう)。枕をつかって眠ると、みるみる出世、名声をえ、嫁をもらい、ところがえん罪を受け、自殺をしようとしたり、波瀾万丈の人生を送り、そして死にました。ふと目覚めると、寝る前に火にかけた粟飯が炊き上がりました。かれは導師に「人生の栄枯盛衰すべてを見ました。ありがとうございました。」と礼をいい、故郷に帰りました。とさ。

 さて夢のあひだは粟飯の、一炊のあひだなり  『邯鄲』

秀吉の辞世の歌も、これを踏まえているのかな。

 露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢

大門の跡は一里こなたにあり。奥州藤原氏の栄華はすさまじく、門から屋敷まで4キロメートルもあったというのです。

ジェームス・ディーンがでていた『ジャイアンツ』という映画だったと思いますが、都会出身のエリザベス・テーラーがテキサスの大富豪のところへ嫁入り。門から屋敷まで車でぶんぶんとばしてもなかなかた辿り着かないシーンがありました。門から屋敷までの距離は、どれだけたくさんお金をもっているかを示すバロメーターになるようです。

芭蕉のころ、秀衡が跡は田野でしたが、いまは柳之御所跡として整備されています。金鶏山はいまも残っています。写真の小山がそうだった記憶ですが、もしかすると高館のある小山だったかもしれません(平泉の旅は夢のようだったので、そこのところの記憶がはっきりしません・・)。

栄耀栄華が一睡の夢だとしても、山は最後まで残る。やはり山に登らねば!強引?いやいや人為に対する自然、不易流行の考えにもとづく見解です(笑)。

2021年5月31日月曜日

源義経主従と奥州藤原氏の鎮魂(2)

 

 源義経主従と奥州藤原氏なのですが、源義経、弁慶、佐藤兄弟、藤原清衡、藤原忠衡(和泉三郎)及び十郎権頭兼房らが登場人物になります。

主役の義経はご存知でしょう。平治の乱で敗れた源義朝の九男(九郎判官と呼ばれます。)、本来なら切られてしまうところ助命されて、鞍馬寺に預けられました。

一の谷の戦いをはじめ、身ごなしが軽く軍事的天才だったことから、鞍馬の天狗に武術を習ったとされています(鞍馬天狗もさぞや鼻が高かったことでしょう。)。

弁慶が配下になったのは、京の五条の橋の上。唱歌・牛若丸にあるとおり。

♪京の五条の橋の上
 大のおとこの弁慶は
 長い薙刀ふりあげて
 牛若めがけて切りかかる・・・

太宰府にも五条小橋がありますが、薙刀をふりあげるには狭いようです。

義経は長じて奥州に下り、奥州藤原氏三代目・清衡の庇護を受けました。そして関東で兄・頼朝が旗揚げするやはせ参じ、以後、頼朝軍の先頭にたって戦闘を戦いました。

一の谷、屋島、壇之浦の戦いで連戦連勝、平家を滅ぼします。下の写真は、関門海峡・壇之浦での八艘飛びの様子。

戦勝の最大の功労者だったものの、戦後、頼朝の了解を受けずに官位を受けるなど政治音痴だったために頼朝に追われることに。ロレンスの末路とおなじです。

義経主従が落ち延びる様子は、能や歌舞伎の題材に好んで取り上げられています。義経千本桜、船弁慶、安宅など。

なぜでしょう。新田次郎の小説でも、武田信玄の上昇話より武田勝頼の没落話のほうが人間ドラマとして面白いんです。

義経がふたたび頼ってきたことから、奥州藤原氏も頼朝に滅ぼされる運命の渦に巻き込まれてしまいます。こうして義経主従、奥州藤原氏の悲劇の幕が切って降ろされます。

頼朝にとって義経はほんとうに利用しがいのある駒になりました。平家打倒の際には最大の貢献をしてくれましたし、打倒後は武家政権を確立する口実を与えてくれたうえ、金や馬など莫大な財産をもっていた奥州を手に入れる口実まで与えてくれたのですから。

当時から、庶民はこれはひどい、あんまりじゃないかと思ったわけです。そして義経はつよい恨みを残して死んだにちがいないと思いました。頼朝や武家のまわりでなにか事故があると、義経の怨恨にちがいないと・・・。こうして誰かが義経らの鎮魂をすることが必要になるんですねぇ。