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2021年5月31日月曜日

源義経主従と奥州藤原氏の鎮魂(2)

 

 源義経主従と奥州藤原氏なのですが、源義経、弁慶、佐藤兄弟、藤原清衡、藤原忠衡(和泉三郎)及び十郎権頭兼房らが登場人物になります。

主役の義経はご存知でしょう。平治の乱で敗れた源義朝の九男(九郎判官と呼ばれます。)、本来なら切られてしまうところ助命されて、鞍馬寺に預けられました。

一の谷の戦いをはじめ、身ごなしが軽く軍事的天才だったことから、鞍馬の天狗に武術を習ったとされています(鞍馬天狗もさぞや鼻が高かったことでしょう。)。

弁慶が配下になったのは、京の五条の橋の上。唱歌・牛若丸にあるとおり。

♪京の五条の橋の上
 大のおとこの弁慶は
 長い薙刀ふりあげて
 牛若めがけて切りかかる・・・

太宰府にも五条小橋がありますが、薙刀をふりあげるには狭いようです。

義経は長じて奥州に下り、奥州藤原氏三代目・清衡の庇護を受けました。そして関東で兄・頼朝が旗揚げするやはせ参じ、以後、頼朝軍の先頭にたって戦闘を戦いました。

一の谷、屋島、壇之浦の戦いで連戦連勝、平家を滅ぼします。下の写真は、関門海峡・壇之浦での八艘飛びの様子。

戦勝の最大の功労者だったものの、戦後、頼朝の了解を受けずに官位を受けるなど政治音痴だったために頼朝に追われることに。ロレンスの末路とおなじです。

義経主従が落ち延びる様子は、能や歌舞伎の題材に好んで取り上げられています。義経千本桜、船弁慶、安宅など。

なぜでしょう。新田次郎の小説でも、武田信玄の上昇話より武田勝頼の没落話のほうが人間ドラマとして面白いんです。

義経がふたたび頼ってきたことから、奥州藤原氏も頼朝に滅ぼされる運命の渦に巻き込まれてしまいます。こうして義経主従、奥州藤原氏の悲劇の幕が切って降ろされます。

頼朝にとって義経はほんとうに利用しがいのある駒になりました。平家打倒の際には最大の貢献をしてくれましたし、打倒後は武家政権を確立する口実を与えてくれたうえ、金や馬など莫大な財産をもっていた奥州を手に入れる口実まで与えてくれたのですから。

当時から、庶民はこれはひどい、あんまりじゃないかと思ったわけです。そして義経はつよい恨みを残して死んだにちがいないと思いました。頼朝や武家のまわりでなにか事故があると、義経の怨恨にちがいないと・・・。こうして誰かが義経らの鎮魂をすることが必要になるんですねぇ。

2021年4月19日月曜日

那須の与一が祈願した神社はどこ?



(小豆島から瀬戸内の夕日、左手に屋島がみえている)


(湯元温泉にある温泉神社)

もののふの矢並つくろうふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原

                      源実朝『金槐和歌集』

那須野・黒羽は栃木県北部、那須連山の麓にひろがる扇状地にあります。扇状地ですので、土質は砂礫層で雨が降っても地表にはとどまらず、伏流することになります。田をつくることができず、野がひろがることになります。それで那須野なわけです。那須野は鎌倉武士の実践訓練場でもありました。

おくのほそ道の那須野の段は、野、馬、武士、弓、騎射などのキーワードがちりばめられ、このような雰囲気をつたえています。はじめに那須野で道に迷わぬよう馬を借りましたし、結びで殺生石に行く際も馬です。その際、口付きの男に頼まれて詠んだ句は

 野を横に馬引き向けよほととぎす

芭蕉のお弟子さんは商人・町人が多かったと思われますが、黒羽のお弟子さんは武家です。そのお武家さんが案内した名所も、那須の篠原、犬追物(犬を騎射する弓術の鍛錬法)跡、玉藻の前を射殺・退治した古墳、那須与一ゆかりの八幡宮と、いずれも武士に関わりのあるところです。

玉藻の前の話は後でするとして、今回は那須与一の話。名前のとおり那須野出身の武士のヒーロー。いまでいえば、筑陽学園出身・阪神タイガースの谷川昌希投手というところでしょうか。

彼は源平合戦のクライマックス、八島のたたかいで登場。波にゆれる船のうえ、平家がたの美女が扇の的を高々とかかげています。その扇の的を矢が届くギリギリの距離から見事射貫きました。パチパチ。

このエピソードは誰でも知っていると思っていました。が、事務所の研修旅行で小豆島に行った際、屋島が見えていたのでそう指摘したら、若い衆は無反応。いま日本史はあまり教えられていないんですね。ふぅ。

さて気になるのは与一ゆかりの八幡宮のくだり、おくのほそ道にはこうあります。

与一扇の的を射し時、「別してはわが国の氏神正八幡」と誓ひしも、この神社にてはべると聞けば、感応殊にしきりにおぼえらる-とあります。

念のため、手もとの『平家物語』の当該箇所を見てみると、ちょっと違います。少なくとも岩波文庫(四)166頁では、こうなっています。

与一、目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現・宇都宮・那須のゆぜん大明神、願くはあの扇のまンなか射させてたばせ給へ。これを射そんずる物ならば、弓きりをり自害して、人に二たび面をむかふべからず。いま一度本国へむかへんとおぼしめさば、この矢はづさせ給ふな」と、心のうちに祈念して・・・

八幡神は武運の神様なので、八幡大菩薩に帰依するとは言っています。が、「別してはわが国の氏神正八幡」という言葉は出てきません。浄法寺さんたちが地元の八幡さまを紹介する際、話を盛ったのでしょうか。

とまれ、那須山の麓にある湯元温泉、あとで紹介する殺生石があるところですが、そこには温泉神社があります。那須のゆぜん大明神とはここのことでしょう。少なくとも、同社の案内にはそう記載されています。

ただし、現在の温泉神社も鎌倉時代のものがそのままというわけではありません。まさしく不易流行なわけです。