きのう述べたとおり、笠島に先回りしたかたちになっているので、きょうは国道4号線を戻って岩沼へ。
岩沼は阿武隈川が仙台湾にそそぐ河口の北にあります。阿武隈山地の北麓で、福島県の中通りと浜通りの合流点です。仙台空港が近く、東北本線と常磐線も合流しています。
司法修習生時代、日暮里(湯島までは千代田線経由で)から千葉県の松戸・馬橋まで常磐線を利用して通勤していました。常磐線は柏くらいまでのイメージだったので、岩沼まで延びてきていたことに感慨を覚えます。
そこに武隈の松という有名な歌枕があります。おくのほそ道には、有名な松や松の名所がたくさん登場します。武隈の松、末の松山、松島、姉歯の松。むかしは1000年生きるという長寿にあやかりたいと人気があったんですね。
武隈の松の特徴は、「二木(ふたき)に分かれて」いることです。東北本線と常磐線が合流するところで、松は逆に分かれているんですねぇ。
そのため古来、松の特徴をシャレた歌が詠まれてきました。
まずは橘季通。
武隈の松は二木を都人 いかがと問はば見きと答へむ
二木→見き(三木)というシャレです。ダジャレじゃありませんよ。
つぎに能因法師。みちの國にふたたび下りて後のたびたけぐまの松も侍りざりければよみ侍りける。
武隈の松はこのたび跡もなし 千歳をへてや我は来つらむ
陸奥の旅は2回目だけれども、前回とちがって武隈の松は跡もなくなってしまっているなぁ。あれから1000年も経っちゃったかなぁ。
武隈の松の跡がなかったのは、往昔、陸奥守にて下りし人(藤原孝義)、この木を伐りて名取川の橋杭にせられたることなどあればにや。
名取川はつぎの宮城野(仙台)との境を流れています。芭蕉が笠島の段と岩沼の段をひっくり返した理由の一つはここにありそうです。
能因法師は奥州に2度も旅をした歌人ですから、西行や芭蕉の大先輩です。おくのほそ道でも、ここのほか、すでに白河の関で登場していますし、のちほど象潟でも登場します。
当然、西行も歌を詠んでいます。
枯れにける松なき宿の武隈は 見きといひても効なからまし
こうして武隈の松は代々、伐られたり、枯れたりして、いけば必ず出会えるというものではなかったようです。でもあらたに植えられたりして、新しい代の松に出会えることもあったよう。西行の訪問から500年後、芭蕉のときはどうだったのでしょうか。
ありました!そのことに芭蕉は大感激しています。
武隈の松にこそ目さむる心地はすれ。根は土際より二木に分かれて、昔の姿失はずと知らる。・・・代々、あるは伐り、あるいは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳の形整ひて、めでたき松の気色になんはべりし。
昔の姿失はずとか、今はた千歳の形整ひとか、諸事流行し滅していくなか、不易でありつづけることに感激しておられます。
そして江戸を立つ際、弟子の挙白が餞別にくれた句。
武隈の松見せ申せ遅桜
これに答えて芭蕉が詠んだ句。
桜より松は二木を三月越し
挙白が詠んだ桜の季節から3月経ってしまったけど、ようやくだ。松→待つ、二木→三月、三月→見つなどシャレておられます。
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