名取川を渡って仙台に入ります。名取川は、陸奥守が武隈の松を伐って橋杭にしたという川です。上流には秋保温泉があり、立派な温泉が並んでいて、いちど会議で訪れたことがあります。
芭蕉が仙台に入ったのはあやめ葺く日、つまり端午の節句でした。おくのほそ道の冒頭の句は
草の戸も住み替わる代ぞ雛の家
であり、桃の節句でした。あれから2か月余。ここに来るまでにも、浅香山であやめに代わる花がつみを探し回ったり、飯塚の里・医王寺で詠んだ句が「笈も太刀も五月に飾れ紙幟(かみのぼり)」だったり。仙台での端午の節句に向けて、着々と布石を打ってきた感じです。
仙台は伊達藩の城下町です。伊達藩は幕府にとっては煙たい存在であり、伊達騒動をネタに「伽羅先代萩」や「樅の木は残った」が作られました。最近では伊坂幸太郎さんが仙台を舞台に面白い小説をたくさん書いています。
その仙台で、芭蕉は画工の加右衛門と知り合いになり、昼は、仙台の名所を案内してもらいました。いまなら青葉城と霊屋でしょうが、当時は無理なので、あちこちの歌枕見物。
(宮城野萩)
宮城野の露吹きむすぶ風の音に 小萩がもとを思ひこそやれ 源氏物語・桐壺
(玉田・横野)
取りつなげ玉田・横野の放れ駒 つつじが岡はあせみ咲くなり 藤原俊頼
(木の下)
みさぶらひ御笠と申せ宮城野の 木の下露は雨にまされり
夜には、松島・塩竃などの名所の画と、紺の染緒を付けた草鞋2足の贈り物をくれました。芭蕉は大喜び。さればこそ、風流のしれ者、ここに至りてその実を顕す。と、大絶賛。そして句を詠んでいます。
あやめ草足に結ばん草鞋の緒
もらった画図にまかせて東へ向かえば、奥の細道という地名がありました。なんと奥州全体のことかと思いきや、おくのほそ道というタイトルはこの地名から採られているんですね。その山際にも歌枕が。
(十符の菅菰)
みちのくの十符の菅菰七符には 君を寝させて我三符に寝む
加右衛門が歌枕に詳しいのは何故でしょう。元禄時代、長く続いた戦国時代が収束して平和が訪れ、生産力が伸びて豊かになり、各地で文芸復興の動き(プチ・ルネサンス)があったことが背景にあります。
芭蕉は貞門派・北村季吟の門下です。季吟もこのような文芸復興の動きのなか、歌学を学び、『土佐日記抄』『伊勢物語拾穂抄』『源氏物語湖月抄』などの注釈書を著しています。つまり古典に詳しい。そのようなバックグラウンドが芭蕉の句を支えてもいますし、そこからの守・破・離が蕉風への道になっています。たぶん。
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