2021年6月11日金曜日

壺の碑(2)ー千歳の記念

 


東北にあるげなというけれど、どこにあるかは誰も知らない・・。インディー・ジョーンズの失われたアークみたい。

古代の遺跡は年間数ミリずつ土に埋もれていくので、1~2m掘らないと発見できません。発見されたとされるものも、偽物ではないかという疑いがついてまわります。

あの漢委奴国王と刻まれた金印も志賀島のお百姓が畑で発見したといわれているけれど、不自然、怪しい、偽物ではないかみたいな。

多賀城碑も、古代からずっとあったわけではなく、例のプチ・ルネサンスの流れでしょうか、江戸時代初期に再発見されています。それで芭蕉が訪れた際には、これが壺の碑だとされていました。

 壺の碑 市川村多賀城にあり。
 壺の石ぶみは、高さ六尺余、横三尺ばかりか。苔を穿ちて文字幽かなり。四維国界の数里を記す。「この城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。・・」とあり。聖武天皇の御時に当たれり。

あれれ。坂上田村麻呂だったはずなのに、大野東人になっている。年代は桓武天皇の延暦20年(801年)のはずなのに、聖武天皇の神亀元年(724年)。胆沢城(岩手県)のはずなのに、多賀城(宮城県)。どうなってるの?

というわけで、いまでは、多賀城碑は壺の石文ではないとされています。昭和になって「日本中央」と書かれた石が青森県で発見され、そちらが本物なのだそうです(南部壺碑説)。

さて多賀城市は、太宰府市と姉妹都市。東の蝦夷に対する多賀城、西の隼人に対する大宰府政庁という関係だからです。多賀城跡も大宰府政庁跡も昭和になって発掘が進み、いまの姿がみられるようになっています。その前は畑か原野だったのだろうと思います。

ちなみに、多賀城碑を置いたとされる将軍大野東人、芸名のような名前です。彼はその後、藤原広嗣の乱を平定するため、九州、おそらく大宰府まで来ています。多賀城も大宰府政庁も、反乱と服属の歴史的舞台なんですねぇ。

奥州の歴史だけでも、蝦夷vs大野東人、アテルイvs坂上田村麻呂、陸奥の俘囚長安倍氏vs源頼義(前九年の役)、清原氏vs源義家(後三年の役)、奥州藤原氏vs源頼朝(奥州合戦)、伊達政宗vs秀吉・家康、伊達藩vs幕府(伊達騒動)という反抗と服属がいくえにも繰り返されています。芭蕉ははたしてどちら側だったのでしょうか。

ともあれ、江戸時代に芭蕉が見分したのは壺の石文ではなく、多賀城碑でした。歴史によくある皮肉ですが、芭蕉はその偽から蕉風の真実をつかみとっていきます。

 昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといえども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代はれば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここに至りて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の喜び、羈旅の労を忘れて、涙も落つるばかりなり。

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