2021年6月18日金曜日

仏果を得ず~でも、そんなバカならなってみたい



  念のため、『仏果を得ず』を読み直したら、こんな一文が。

「だがこの場内で本当に生きているのは、不思議なことにいま死にゆかんとする早野勘平ただ一人だ。命を持たぬはずの勘平の人形だけが輝きを放つ。

 俺が語る声も、兎一郎兄さんの三味線も、人形を遣う十吾の息づかいも、客席からの熱気も、すべてが勘平という架空の人物のための糧にすぎない。

 舞台は爆発寸前の高揚を秘め、健はその場に居合わせた人々が、大きな渦に巻き込まれていくのを感じた。抗いようがない。舞台を主導していたはずの自分の声すら、もはや制御不能な巨大な渦の一角となった。

 これが劇だ。時空を超え、立場の異なる人々の心をひとつの場所へ導く、これが劇の力だ。」

この一文に、「はなれて奏でる」で書いたことが端的に表現されています。さすがしをん様、すばらしい。

 みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに

歌枕・しのぶもぢずりの石で、千年以上まえに死んだはずの河原左大臣の霊と歌だけが不易の輝きを放つ。

能因、西行、芭蕉一行やわれわれが、融の起こした大きな渦に巻き込まれていく。歌枕や歌は、時空を超え、立場の異なる人々の心をひとつの場所に導く、これが歌枕や歌の力だ。

こんなことを書くと、かならず「何いってんのあんた、何いっているかわかりません」などという人がでてくる。だいじょうぶ。そういう人にも、しをん様はお言葉を賜ってくださっています。

「『思へばゝこの金は、縞の財布の紫摩黄金。仏果を得よ』
 ああ、哀れなり、忠臣郷右衛門。いつも綺麗事ばかりで道をふみはずさぬあんたは、決してこの境地にたどりつけやしないんだ。勘平の、俺の、すべてを捨て去った、捨てざるを得なかった気持ちは、決してあんたにはわからない。だからあんたは、この劇のなかで一人だ。観客の共感から弾き飛ばされ、どこか遠くをぐるぐるまわりながら、『忠義、忠義』と飽きるまで吼えたてるといい。」

なんという厳しいお言葉。タイトルは忠臣蔵なのに、「忠義、忠義」と言ってんじゃないよ!ってどういうこと?ってかんじです、ははは。いつも綺麗事ばかりで道をふみはずさぬやからたちに、いちど言ってみたい。さぞや胸がすくことでしょう。

こうしていつものように、本の帯にあるとおり「でも、そんなバカならなってみたい」という気持ちにさせられたのでした。

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