草枕とは道野辺に草を枕にして寝る意で、旅にかかる枕言葉です。
草枕旅行く君を幸くあれと いはひへ据ゑつ我が床の辺に(万葉集)
われらが草枕の旅は、月の輪の渡しで阿武隈川を越え、瀬の上の宿を経て、佐藤庄司の旧館・城跡に至りました。
庄司は庄の司という意味で、本名は佐藤元治。義経の家来、佐藤兄弟の父です。佐藤兄弟は、継信と忠信。奥州藤原三代目・秀衡の命により、義経の家来に。
継信は、屋島の戦いで、平教経の放った矢に義経の身代わりになって戦死。黒羽の段で、源氏方の那須与一の剛弓の話をしましたが、その逆です。「平家物語」や謡曲「屋島」に出てきます。
忠信は、頼朝から追われ落ち延びる際、義経の身代わりになって都に潜伏。居所が密告により追っ手にバレて囲まれ自害。芭蕉は忠義に生きた彼らの霊を召喚しながら、涙を落としました。こちらは歌舞伎の「義経千本桜」に出てきます。
こうして佐藤兄弟は、若くして亡くなってしまったわけですが、能や歌舞伎を通じて、不易の名をいまに伝えることになったのでした。パチパチ。
またかたはらの古寺(医王寺)には石碑があり、ふたりの嫁も召喚しました。そのしるしが、まづあはれ。佐藤兄弟に代わり、凱旋姿を姑に見せたといいます。
芭蕉は、女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしました。「女なれども」というのは芭蕉がおっしゃっていることなので、悪しからず。
寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀・弁慶が笈をとどめて什物とす。そして一句。
笈も太刀も五月に飾れ紙幟(かみのぼり)
きょうは6月1日、五月じゃないぞ、もたもたしているからだと芭蕉に叱られているわけではありません。芭蕉のいう五月は旧暦ですから、新暦でいえば6月10日から30日間。いまから飾っても間に合います。智に働かなくても角は立ちません。
※ところで、博多大丸地下2階の和菓子屋「鈴懸」ご存知ですね。鈴懸というのは、弁慶がひっかけている上っぱりのことですよ。
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