2021年6月29日火曜日

旅の宿ー松島の松かげに春死なん

 

  江上に帰りて宿を求むれば、窓を開き二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。

 松島や鶴に身を借れほととぎす 曽良

予は口を閉ぢて眠らんとしていねられず。旧庵を別るる時、素堂、松島の詩あり。原安適、松が浦の和歌を贈らる。袋を解きて今宵の友とす。かつ、杉風・濁子が発句あり。

 事務所旅行のとき、ホテル松島大観荘に泊まりました(写真上)。松島の月を見るには絶好の立地で、大観荘の名にはじないお宿でした(二日市温泉で観月する際には、二日市温泉大観荘をご利用くだされ。)。

芭蕉は松島で

 松島やああ松島や松島や

の句を詠んだとされていますが、違います。実際には、曽良が一句詠んだだけ。芭蕉は感動のあまり一句も詠めませんでした。

ちょー感動したとは書いてありませんが、小学生の遠足のように興奮のあまり眠られませんでした。

現代ならバーかラウンジで一杯というところでしょうが、芭蕉は袋を解いて、友人やお弟子さんからもらった餞の品々を見て心を落ち着けようとしています。

ここらへんが芭蕉の心の不思議。一方で、かれが葉が破れやすい芭蕉と号しているのは、傷つきやすい心の持ち主だということです。そして世をいとふ人々にあこがれています。

他方で、座の文学である連句を愛し、俗世の友人やお弟子さんのことも心から愛しています。まさに胡蝶の夢、こちらの世界もあちらの世界も大好きで、自由自在に行き来します。

友人の素堂からは、松島の詩を贈られました。その際のやりとり。

送芭蕉翁、
西上人のその如月は法けつたれば我願にあらず、
ながはくば花のかげより松のかげ、
春はいつの春にても我ともなふ時
 松島の松かげにふたり春死なん 素堂

西上人は西行のこと。西行は歌もうまかったけれども、歌がうまいだけなら何人もの歌詠みがいました。なかでも、人々を感動させたエピソードがあります。

 願はくは花の下にて春死なむ その二月の望月のころ

西行の有名な歌ですが、西行はこの歌のとおり、二月の望月のころ桜の花の下で亡くなりました。現代でいえば、ベーブルースの予告ホームランのようなものでしょう。

当時の人々はさすが西行と驚嘆しました。江戸時代の芭蕉らが西行を慕うのも、これが理由の一つになっています。

冒頭、古人も多く旅に死せるありとありました。旅に死んだ古人の代表が西行です。西行を慕う芭蕉も旅先で死ぬことを辞さない、できればそうしたいという気持ちはあったでしょう。おくのほそ道の旅ではそれをなし遂げることができませんでしたが。

ただし、芭蕉は桜の下ではなく、松のかげで死にたいと言っています。なぜでしょう。桜とちがい、松は千歳を生きるとされていたことによるでしょう。曽良の句にでてくる鶴もそうです。松島(雄島)がこの世とあの世をつなぐ霊場であることも関係していたでしょう。

不易な松のかげで死ぬ、まさに不易流行です。

さらに、芭蕉の名字である松尾も関係しているかもしれませんね。松尾・芭蕉。もう名前からして不易・流行です。

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