2021年6月7日月曜日

笠島ー朽ち人の不朽の名

 


蔵王山を下山すると白石、そこから奥州街道(いまの国道4号線)を北上すると、まずは武隈(岩沼)です。ところが、おくのほそ道の本文では、その先にある笠島の段になっています。

道に迷ったという説もあるようですが、曽良の随行日記でも道迷いはありません。やはり、文学的な必要性による前後入替えと思います。ここでも芭蕉にしたがって、まず笠島にまいりましょう。

 笠島の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人に問へば、「これより遙か右に見ゆる山際の里を、簑輪・笠島といひ、道祖神の社・形見の薄、今にあり」と教ふ。

またまた登場、藤原実方です。小倉百人一首51番に、かくとだにの歌が採られていました。そして、中宮定子、同彰子の夫であった一条天皇に「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられ、奥州まで下ってきた彼です。

「歌枕を見てまいれ」という言葉が頭のなかで鳴り響いたために、芭蕉も歌枕を見る旅にでたのでしょう。芭蕉の実方びいきは、ここら辺が原因かもしれません。

まずは復習。実方の最初の登場は、室の八島でした。室の八島の煙にちなんで、次の歌を詠んでいました。

 いかでかは思ひありとも知らすべき 室の八島の煙ならでは

つぎは浅香山の段。端午の節句なのに、奥州には菖蒲がありませんでした。しょう(ぶ)がないので、代わりに花がつみを軒にさしました。芭蕉も、実方にならって花がつみを探し回りました。

そしてここ笠島が実方の旅の終着点です。ここには道祖神の社があります。旅の神です。おくのほそ道の冒頭、芭蕉も「道祖神の招き」にあっています。

神社にはどこでも「下馬」と書かれていますが、実方は社前を乗馬のまま通ろうとして神罰を受け、死んだとされています。

辞世の歌

 陸奥の阿古耶の松を尋ねわび 身は朽ち人になるぞ悲しき

約200年後、この実方の墓を西行が訪れています。西行は2度も奥州を訪れています。そして実方を偲んで次の歌を詠んでいます。

 朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて 枯野の薄かたみにぞ見る

かくて里人が芭蕉らに「道祖神の社・形見の薄、今にあり」と教えたわけです。

実方と西行の歌は、不易流行の考えそのものを示しています。芭蕉がいまにいたる不朽の考えにたどり着いた決め手だったかもしれませんね。

 西行の訪問からさらに500年後、芭蕉一行は笠島を歩いています。

ところが、芭蕉は天候・行路不良と体調不良を理由に実方の墓参りをしていません。いわく。

 このごろの五月雨に道いとあしく、身疲れはべれば、よそながら眺めやり過ぐるに、簑輪・笠島も五月雨のをりに触れたりと、

 笠島はいづこ五月のぬかり道

五月雨は旧暦五月の雨なので、いまでいえば6月の梅雨の雨のことです。ここでも芭蕉は体調不良を訴えています。飯塚温泉で発症した病をひきづっていたのかもしれません。

この病気を訴える飯塚温泉の段につづけたいためというのが、笠島と武隈(岩沼)をひっくり返した理由の一つでしょう。

でも、簑輪の簑、笠島の笠、どちらもレインウエアであり、五月雨の季節に関係すると、俳味を感じ句に結び付けるところはさすがです。

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