2021年6月21日月曜日

塩竈神社(鹽竈神社)

(宮柱ふとしく、採椽きらびやかに) 

(石の階、九仞に重なり)

 あれれ。土日のんびりしているあいだに、トミーが連投しています。少なくとも雨ニモ負ケズの投稿は芭蕉一行が岩手県に入るまで待ってほしかった気がしますが、しかたありません、先を急ぎましょう。

 早朝、塩竈の明神に詣づ。国守再興せられて、宮柱ふとしく、採椽きらびやかに、石の階九仞に重なり、朝日朱の玉垣をかかやかす。かかる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそわが国の風俗なれと、いと貴けれ。

写真をうまく撮るには斜光線がいい、といわれています。朝夕、日の光が斜めに差すと、被写体が立体的に写り、平板な作品を免れるからです。

芭蕉の描写も、早朝参拝の効果でしょう。清澄な空気のなか、お宮全体がキラキラと輝いています。もともと塩竈神社は小高い丘の上にあり、仰ぎ見るかんじなのです。それに、さらに早朝効果がつけくわわって、神々しさばつぐんです。

(文治三年の宝灯)

 神前に古き宝灯あり。鉄の扉の面に「文治三年和泉三郎寄進」とあり。五百年来の俤、今目の前に浮かびて、そぞろに珍し。かれは忠義忠孝の士なり。佳名今に至りて慕はずといふことなし。まことに「人よく道を勤め、義を守るべし。名もまたこれに従ふ」といへり。

芭蕉が塩竈神社をキラキラと描いたのは、こちらの本題をより効果的に浮かび上がらせたかったからでしょう。和泉三郎は、奥州藤原三代・秀衡の三男・忠衡です。忠衡という名前をもらったときに、忠衡の運命は定まったのでしょう。

奥州藤原氏については、NHK大河ドラマ『炎立つ』でやっていました。後三年の役ののち勃興して奥州の覇者となったものの、わずか三代で頼朝に滅ぼされてしまいました。

頼朝に追われる義経は、秀衡を頼って奥州に落ち延びます。義経にふところに飛び込まれた秀衡は、さぞや困ったことでしょう。ところが、頼朝との駆け引きがこれからというときに、病没してしまいます。

それが文治三年(1187年)です。芭蕉来訪の500年前。和泉三郎こと忠衡はどのような願いを込めて、この法灯を寄進したのでしょうか。

鎌倉の圧力に屈し、泰衡は義経を殺し、その首を頼朝にさしだしました。忠衡は義経に対する忠義の心からこれに反対し、やはり泰衡に殺されてしまいます。その後、その泰衡も頼朝に攻めほろぼされてしまいます。

判官びいきもあり、のちの人々は、忠衡を忠義忠孝の士なりとして褒め称え、その名をいつまでも慕います。よく道を勤め、義を守れば、不易の名を残すことができるーというわけです。

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