ラベル 紫式部 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 紫式部 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年6月7日金曜日

大弐三位って誰?

 

 ありま山ゐなの笹原風吹けば
       いでそよ人を忘れやはする  大弐三位

 有馬山から猪名の笹原へと風が吹きおろすので、笹の葉がそよそよとそよぐ。そうですよ、そのように、私はあなたのことを忘れなどするでしょうか、忘れはしません。

 百人一首58番の歌。大弐三位は紫式部の娘である。和泉式部-小式部内侍の母娘につづいて、母娘での登場。いまなら藤圭子-宇多田ヒカルみたいなものか。才能を受け継ぎ、母娘で栄誉を受ける。

大弐三位も、やはり彰子のサロンに入っている。これもまた和泉式部母娘と同じ。というか逆か。

大弐・三位という名前は、前半は夫が大宰大弐だったから、後半は自身が後冷泉天皇の乳母となり従三位に叙されたため。

東京オリンピック2位、パリオリンピック3位となれば、第2位・3位と呼ばれるだろうか。

知りあいの弁護士に夫が(元)弁護士会会長、自身がロータリークラブ地区幹事、ガバナー補佐(予定)のかたがいらっしゃる。世が世なら、弁護士会会長・地区幹事・ガバナー補佐・弁護士だ。


 めぐりあひて見しやそれともわかぬまに
           雲がくれにし夜半の月かな  紫式部

 やっとめぐり会って、見たのが月だったのかどうかもわからないうちに、雲の中に隠れてしまった夜半の月よ。それと同じように、久しぶりに出会ったのに、幼友達のあなただったのか、はっきりと見分けられないうちに、あなたは姿を隠してしまいました。

 百人一首57番の歌。いわずとしれた「光る君へ」の主人公まひろさん。




 有馬はいまでは温泉地になっている。神戸からいうと、六甲山の向こう側の盆地に位置している。さて有馬山とはどこだろう?

猪名(郡)はいまの吹田、伊丹、尼崎あたりのことらしい。つまり、淀川河口の北岸あたりだ。平安時代は笹原だったのだろう。

しかし、有馬の山から淀川河口あたりまで風が吹き下ろすということがあるだろうか?

https://www.google.com/maps/place/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E5%90%B9%E7%94%B0%E5%B8%82/@34.7551324,135.2932428,12.25z/data=!4m6!3m5!1s0x6000e4a6bda73c45:0x527cc777508a7d95!8m2!3d34.7593593!4d135.5164769!16zL20vMDF3bjEx?entry=ttu

調べると、昔から有馬山と猪名はセットで詠まれることが多かったらしい。有馬山は特定の山ではなく、その周辺の山々の総称だという。それなら、いまの六甲山東部でよくないだろうか。よく分からない。

よく分からないといえば、「笹の葉がそよそよとそよぐように、私はあなたのことを忘れはしません」というロジックもよく分からない。時間が経って忘れることができたと思っていても、なにかのひょうしに思い出してしまい、心がざわざわするということだろうか。なんか、ざわざわする。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月5日水曜日

和泉式部って誰?

 

 あらざらむこの世のほかの思ひ出に
       いまひとたびのあふこともがな  和泉式部

 私はもうすぐ死んで、この世からいなくなるでしょう。あの世への思い出として、せめてもう一度だけあなたにお逢いしたいのです。

百人一首56番の歌。『和泉式部日記』の作者。日記は冷泉天皇の子である兄・為尊親王(花山天皇の異母弟)が亡くなったあと、その弟・敦道親王との燃え上がる恋を描いたもの。敦道親王が亡くなったあと、和泉は日記を執筆した。

その後、和泉は中宮彰子に仕えた。彰子は、道長と倫子との間の娘。赤染衛門が倫子のサロンのあと、彰子のサロンに仕えるようになったのは、母→娘という自然な流れである。

一条天皇は、文学好き。当初、漢詩文など教養のある定子(高畑充希)にぞっこん。定子には清少納言が仕えていた。定子は道隆と儀同三司母の子である。伊周らの失脚に伴い、落飾してしまう。

その後継をねらったのが、道長と娘・彰子。道長は文学好きな一条天皇の気をひこうと彰子のサロンに華麗な女流歌人をスカウトしまくった。赤染衛門しかり、紫式部しかり、和泉式部しかり。どこぞの野球チームのよう。

和泉式部の人生や日記はスキャンダラスなのだけれども、道長はそこらへんも踏まえつつ、一条天皇の気をひく人材のひとりとしてスカウトしたのだろう。彰子サロンでは、紫式部の4年後輩である。

紫式部は、日記に、和泉式部評を書いている。

 和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたことあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたる言どもに、必ずをかしき一ふしの目にとまる詠み添へ侍り。それだに、人の詠みたらむ歌難じことわりゐたらむは、「いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめり」とぞ見えたるすぢに侍るかし。「恥づかしげの歌よみや」とおぼえ侍らず。

的確といわれるが長いので、『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』の和泉評を引用する。

 和泉式部は、その身体表現、官能性、豊かな表現力において、他の歌人とは一線を画する、独自の恋歌の世界を形成する。

天皇の血をひく貴公子兄弟をはじめ、男にモテモテで恋多き人生から得た糧をすべて恋歌に昇華したのだろう。

ところで、和泉式部の和泉は泉州岸和田というばあいの泉州のことである。先日、和泉葛城山に登った報告をしたが、あの和泉である。

和泉は何度か結婚している。最初の夫・橘道貞が和泉守になったので、和泉式部と呼ばれる。岸和田にはゆかりの地がいくつかある。

 https://www7b.biglobe.ne.jp/~kiku-uj/yukari/izumi.html

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月8日水曜日

怪鳥会の春遠征(4)光る君誕生の地・石山寺へ

 


 怪鳥会春遠征の中日は雨予報だった。われわれは山行を観光にきりかえた。近江舞子から琵琶湖を時計まわりに一周して観音めぐりをするプラン(『星と祭』井上靖著)を推した。しかしこの日の夕方、岸和田でさる用事があったので時間が足りない。

 やむなくいま話題の「光る君へ」にちなんで石山寺詣をすることにした。番組ではちょうど吉高由里子が寺を訪れたばかりだった。

 近江舞子からJRで大津まで戻り、京阪に乗り換えた。ラッピングはもちろん「光る君へ」仕様だ。このアングルだと吉高は藤原紀香に似ている。


 京阪石山寺から雨のなか、瀬田川ぞいに南へあるいた。10分ほどで東大門。東大門でありながら、どこぞのように狭き門ではない。懐をひろげるようなデザインが石山寺の偉容と寛容を表現している。左右で仁王さんがにらみをきかせているが。


 境内に入ると、光る新緑が美しい。まさに浄土への道である。


 燈籠には、兼家・道兼の策謀で退位させられ、西国三十三所めぐりを創始された花山法王の名前が。「光る君へ」気分をいやがおうにも盛り上げる。


 石山寺は、文字どおり石山のうえに築かれた寺。石山は硅灰石の岩塊。国の天然記念物である。石さえも白く光る。


 本堂(国宝)。本尊は如意輪観世音菩薩。像は硅灰石の上に安置されている。

 石山寺は西国三十三所めぐりの観音霊場の第十三番札所である。平安時代の観音信仰の隆盛のとき、奈良の長谷、京都の清水とともに三観音として厚い崇敬を集めた。


 本堂・相の間には、紫式部が参籠したという「紫式部源氏の間」がある。いまも式部が筆をとっている。 


 月見亭。石山寺は平安時代から伝わる月見の名所。東側が瀬田川沿いに開けているためである。


 月見亭からは瀬田川・瀬田の唐橋だけでなく、琵琶湖ものぞめる。紫式部は琵琶湖に映る月影をみて、源氏物語の須磨・明石の段の着想を得たという。湖面に映る月影をみるにはやや距離がある。


 とまれ、「光る君へ」を離れても、新緑が美しく光る。


 藤も光る。普段見るものより、紫が濃い。


 ツツジはいまからだったが、その美しさを彷彿とさせた。センダンは若葉より・・もとい、ツツジは若葉より芳し。

2024年3月7日木曜日

「世界遺産 大シルクロード展」@アジア美術館(3)

 
(駱駝俑)

(女子俑) 

 シルクロードのうち中国領内の部分が2014年「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」として世界遺産に認定された。西からいうと順に、新疆地域→敦煌→蘭州→西安→洛陽の各都市、各地域を結ぶ。

シルクロードは新疆地域からさらに西に延び、中央アジア、ペルシア、中東、トルコを経てローマに及ぶ。先の第一号ののち、第二号としてタジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンの関連遺跡など計34件が「シルクロード:ザラフシャン=カラクム回廊」の名で世界遺産に認定されている。それでもまだ全長6,400キロメートルの一部だ。

シルクロード上をいろいろな文物が東へ西へ行き来した。シルクロードというぐらいだから東から西へ絹が運ばれたことは間違いない。

東から西へは陶磁器も運ばれた。唐代の陶器は唐三彩だ。鉛釉を施した陶器で、主に副葬用に制作された(副葬品として墳墓から出土している。)。クリーム色・緑・白など三色を組み合わせていることから唐三彩と呼ばれる。

唐三彩は、物そのものだけでなく、技術も日本にも伝来している。あるいは、日本でその技術を真似ようとした。奈良三彩として有名。九州国立博物館にも所蔵されている。

https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=101343&content_part_id=0&content_pict_id=0

「光る君へ」の放送にあわせてか、越前市で越前国府の発掘に取り組んでいるニュースが放送されていた。越前は紫式部の父である藤原為時(岸谷五朗)が県知事として赴任したところ。式部も同行したとされる。

https://artexhibition.jp/topics/news/20240205-AEJ1848029/

その際、発掘のボランティアが語っていたのだが、緑釉のかかった陶片を発掘するとお宝発見なのだそう。当時一般的には須恵器、土師器の時代であるから、緑釉陶器は国府など重要施設だけで使用されていたから。当時は宝石ほどの価値があったことだろう。

シルクロードで発見される唐三彩は、場所柄からラクダ。日本の動物園にいるラクダくんたちとはちよっと違う。頼れる存在だったのだろう、力強い表現になっている。

そして唐美人。ふくよかな顔と優雅な立ち姿。鮮やかな釉に輝くショールは、三越のショーウインドウに輝く高級ブランドをもしのぐ魅力を放っている。

2024年2月5日月曜日

石山寺と『源氏物語』と「光る君へ」

 



 今回は石山駅から石山寺へは行かず近江神宮を訪ねたことは先週書いたとおり。だが、今年になってんNHK大河「光る君へ」をみながら、石山駅のポスターの奨めに従い石山寺を訪ねるべきだったかなと後悔しきり。

調べてみると、2012年6月に石山寺を訪ねていた。本尊は如意輪観音。縁起によれば、聖武天皇の発願により、東大寺開山の良弁が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音を祀ったのが始まりとされる。

琵琶湖から流れ出る瀬田川沿いにあり、MIHO MUSEUMへの往復路から見えていた。幻住庵からは裏山という位置で、歩いて30分もいけば着きそうだった。

本堂は国宝。硅灰石(天然記念物)の上に建築され、石山寺の名の由来になっている。

紫式部が参籠した際、『源氏物語』「須磨」「明石」の巻の着想を得たとか。「紫式部の間」というのがある。その他、清少納言の『枕草子』、藤原道綱母の『蜻蛉日記』等、文学作品にも多数登場する。

今回、「光る君へ」をみていて、あらためて驚かされたことがある。日本の古典の多くが、この時代に書かれていることである。清少納言が中宮定子に、紫式部が同彰子に仕え、互いにライバル関係にあったことは授業でも習いよく知られている。

しかし藤原道綱母も同時代人であったことはどうだろう。第6回では上地勇輔が藤原道綱として登場した。かれは藤原兼家(段田安則)と母寧子(やすこ、財前直見)の子。道長とは異母兄弟である。そういえば、『蜻蛉日記』には、不実な兼家に対する愚痴が書き連ねてあった。

兼家が道兼と二人で共謀して花山天皇を退位させたくだりは『大鏡』で有名。受験中ラジオ講座で学んだとおりだ。

紫式部の『紫式部日記』、道長の『御堂関白記』は知られているが、ロバート秋山が演じる藤原実資は『小右記』を、渡辺大知が演じる藤原行成は『権記』という呼ばれる日記をそれぞれ書いている。

書く側、読む側の教養・素養や情熱や官僚たちの日常行動が、和紙・筆・墨などの貴族階級への普及などとあいまって、このような状況を生んだのだろうか。

安倍晴明(大鏡にも出てくる陰陽師)や藤原公任(三船の才、百人一首など)も有名。こうしてみると、これまでバラバラに存在していた人たちがきら星のごとく星座配列をなしたかんじ。

ちなみに石山寺は西国三十三所の第13番札所。西国三十三所は花山法王の唱道によるものだ。

花山天皇(本郷奏多)は寵愛した女御藤原忯子(井上咲楽)が妊娠中に死亡。その失意から兼家らの策謀にはまって出家するのであるが、そこから西国三十三所を遍歴するに至る。なにがどう転ぶかわからない。

2024年2月2日金曜日

~からの、近江神宮

 


 ここで時間を巻き戻して京都・滋賀旅行に戻ろう。昨年末、幻住庵まで報告していた。

 http://blog.chikushi-lo.jp/2023/

 幻住庵から京阪石山駅に戻った。さてその後はどうしよう?2つの選択肢の間で悩んだ。一つは石山寺、ふたつは近江神宮である。京阪石山坂本線を北へ向かえば近江神宮であるし、南へ向かえば石山寺である。

駅のポスターは石山寺へ誘っていた。来年(もう今年だが)のNHK大河が「光る君へ」なので、地元は観光客誘致に熱心である。むろん、石山寺は紫式部が『源氏物語』を執筆したところとして名高い。

かなり悩んだが、北へ向かうことにした。芭蕉ゆかりの膳所があることや、さいきん光秀ゆかりの坂本城の「幻の石垣」が琵琶湖の水位低下によって現れたなどのニュースに接していたことから、なんとなく北恋しかったから。

石山から粟津、瓦ケ浜、中ノ庄、膳所本町、錦、膳所、石場、島ノ関、三井寺を経て近江神宮前である。右手に琵琶湖が見え隠れする。

駅から西北へ10分ほど歩く。途中右手に、近江大津宮跡遺跡(史跡)がある。

 近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ 柿本人麻呂

 楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ 同

まもなく近江神宮の広大な敷地に到着する。そこからさらに参道をしばらく歩くと、美しい紅葉と響き合う紅い楼門がでむかえてくれた。

天智天皇が祭神。天皇が近江に都を移したことにちなみ、昭和になって創建されている。

天智天皇といえば、なにを思い浮かべるか。われわれ筑紫人としては、百済救援のため斉明天皇とともに九州にやってこられたこと、白村江の戦いで唐・新羅に敗れたこと、その後の防衛のため水城・大野城・基肄城等を築いたこと、斉明天皇の追善のため大宰府観世音寺を創建したこと等が思い浮かぶ。

歴史的・教科書的には、中大兄皇子として中臣鎌足とともに蘇我氏を倒したこと(大化の改新)が有名で、国語教科書・文学的には、大海人皇子とともに額田王に恋したことが有名だろうか。この件は額田王の次の歌で知られている。

 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 

しかし、一般人にはやはりこの和歌の作者として有名でしょう。

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ

百人一首の巻頭歌。為政者として農民たちの辛苦を思いやる主題であるとして、藤原定家が巻頭に置いたとされる。

こうして近江神宮は、百人一首かるたの聖地となっている。毎年1月、競技かるたの「名人位・クイーン位決定戦」がおこなわれている。

ここから漫画『ちはやふる』(末次由紀著)の舞台にもなっている。競技かるたに青春を燃焼させる綾瀬千早たち・・・。

テレビアニメにもなり、広瀬すず主演の映画にもなった。かくて漫画も読み、映画のDVDも見た、そして来た(2回目)。というわけです。

2022年1月31日月曜日

九州脱出ー玉鬘の旅


 
(大宰府政庁跡の紅梅)

 玉鬘(たまかずら)姫をまちかまえていたつぎの苦難は大宰府少弐の死。姫を養護する乳母一家は大黒柱をなくしてしまったわけである。残された乳母たちは姫をお連れして京に帰りたかったが、なかなかこれをはたせず。

さらなる苦難はがさつな男たちだ。姫は大人になり、美人だと評判に。近在の男どもが押し寄せてくるが、姫とは釣り合いがとれない。やむをえず姫には差し障りがあってなどと誤魔かす。

近所の男衆はみなあきらめたけれども、肥後の監(げん)という男はあきらめが悪い。そこはやはり「もっこす」なわけである。ついに屋敷に乗り込んできて、強く結婚を迫る。歌なぞ詠んでみせるが、むさ苦しく田舎ぶりが甚だしい。

ことここに至っては一時の猶予も許されず、姫と乳母一家は九州を脱出。ほうほうのていで都にたどりつく。・・・

紫式部は九州には来ていないだろうから、書いてあることはすべて文字の上か耳学問だろう。読んでいてあれ?と思うことがある。

少弐といえども大宰府の役人であるから大宰府政庁の近くに住んでいたと思われる。しかし乳母らは肥前に住んでいたとある。

それでは基山あたりだろうか。大野城と基肄城は兄弟城であるから可能性はある。肥後の監が懸想したというのだから、熊本に近かったであろうし。

通勤はどうしたのだろう。いまなら自家用車かJRを利用して基山に住んでいる人が太宰府市役所に通勤しているかもしれない。しかし平安時代である。馬だろうか。

と思いながら読み進めると、九州脱出の段にこのような記述がある(引用はいつもの林望先生のもの)。

 〈これでもう二度と、姉さまとは会えないかもしれない。・・・ここで何年も暮らしたとは言っても、どうしても見捨てがたいというほどの所でもないけれど・・・〉と妹は思う。けれども、あの松浦の宮の前の渚と、姉さんに別れるのだけは、何度も何度も、振り返り振り返りするほどに名残が惜しまれるのであった。・・・

などとある。松浦の宮とはいまの鏡神社だし、渚は虹ノ松原だろう。すくなくとも脱出の際、船出したのは唐津のようだ。さらに京都に戻ってからの話であるが、こうある。

 この近くに、八幡の宮という神社がありますが、それは筑紫のほうでも、姫君がいつも参詣しては祈っておられた松浦の宮、そして筥崎の宮と、ご神体を同じくする社です。あの肥前を発って来るときも、松浦や筥崎の宮に、多くの願立てをなさっておいでであったし。・・・

すると肥前というのは唐津のことか。唐津からだと、大宰府まで通勤するには絶望的に遠いのだけれど。

さらに混乱させるのは筥崎の宮。基山から参拝するにも唐津から参拝するにもかなり距離がある。というわけで、姫らが住んでいた肥前がどこかは謎である。

平安時代の京都に住む紫式部が九州の地理に精通していないのはやむを得ない。現代のわれわれだって東北地方の地理については似たようなものだ。しかし読みながら、あれ?と思うのである。

  

2022年1月28日金曜日

都鄙感覚と人権ー玉鬘の旅

 

 『関ヶ原』でだいぶ脱線したけれども、「玉鬘(たまかずら)」の反芻読書に戻ろう。

玉鬘姫は夕顔の娘。夕顔が急死したため、多難な人生を歩むことになる。その多難な人生の大きな部分は九州へ流浪するということ。われわれ九州人からすると、あまり面白くはない。

紫式部は天才だけれども、平安貴族の一人であるから、身分差別はきびしいし、都鄙感覚(都会を無条件によいところとし、田舎を見下す態度)もきびしい。つまり、貴族であっても受領階級は見下しているし、田舎者はバカにしている。いや、実際はそうではなかったかもしれないが、読者層の気持ちを忖度してそのように書いている。

玉鬘は乳母が養育していた。その夫は大宰府の少弐という地方官に着任することになった。玉鬘も連れて行くしかない。そのときの乳母の思案もこんなふうである(先に紹介した林望訳)。

 こうなったからには、やむを得まい。せめてこの姫君だけは行方知れずの母君のお形見として、どこまでもお世話をすることにしよう。・・・筑紫なんて、とんでもない田舎へお連れするについては、都からはるか彼方に下っておいでになる、その悲しいお身の上について・・。

筑紫なんて、とんでもない田舎・・・。とほほ。

ま、ここはそういうふうに描いた方が玉鬘の苦難をより強調することができる、という創作上の仕掛けと考えておこう。

しかしこのような都鄙感覚はいまに至るまで連綿とつづいている。『源氏物語』が古典として読み継がれているせいなのか、それ以前の問題なのか。

怪獣ラドンは阿蘇山の火口から出現した。けっして浅間山からではない。別に富士山から出現したってよいではないか。微妙なところで都鄙感覚が働いている。

連ドラなどでもおなじ。「こんど○○部長、博多に左遷だってよ。」なんて平気で言っている。われわれからすれば、ちょっとそのセリフどうなのってかんじ。紫式部からすれば、東京(板東)だって、とんでもない田舎ではないか。

都鄙感覚が連ドラのセリフどまりであれば問題ない。けれどもきのうハンセン病の偏見・差別問題で触れたように、人権の分野まで及んでくると見過ごせない。

水俣病があれほど長期間放置されたのは東京から遠かったからと言われている。魚が大量に浮いたり、猫が狂ったり、奇病が発生していることは分かっていたが、長らく放置された。

他方、1958年東京で製紙工場排水による江戸川漁業被害が発生した際の国の対応ははやかった。公共用水域の水質の保全に関する法律と工場排水等の規制に関する法律、いわゆる水質二法が制定された。

水俣病の裁判の際には、水質二法で水俣病の発生・拡大を規制できたはずだと主張したが、原因物質がわからなかったのでできなかったなどと国は反論した。隅田川でおなじ被害が起きていたら、そのような反論をすること自体が憚られただろう。

あれれ。優雅な王朝文学の読書をするつもりがまたまた脱線してしまった。優雅な話は来週にもちこし。

2012年11月15日木曜日

ま,いいか。




(丹沢からのぞむ相模湾,江ノ島,三浦半島,東京湾)

そこには衝撃の事実が!
そして,CM

その後あかされる事実
が,さして衝撃的でない…。

さいきんの安易なTV番組のつくりだけれど
本日の展開に衝撃を受けなかった方,ごめんなさい。


さて,和歌でも音楽でもなんでも巧みな藤原公任が
源氏物語の作者・紫式部に「若紫さん」と話しかけた。

さて,この場面
どうとるのか?

『源氏物語』という大きな伏線があるので
てっきりツヤっぽい場面かと理解した。いや,していた。

ところが,である。
じっさいは宴会の場面。

これは意外。
(ここ,衝撃をうけるところ)

当世,古典の日となった
11月1日は

道長の娘=中宮彰子が天皇の子(男子)を産んで50日
そのお祝いの日だったようだ。

その宴会の様子を紫式部が怜悧な観察眼で記録したもの。
それが11月1日の記事だ。

宴会の様子は
当世とあまり変わらない。

右大臣(いまなら,副総理?)は女官たちめがけて
さんざんな乱れよう。いまならセクハラおやじだ。

右大将(いまなら,○○大臣?)は女官たちに近より
裾や袖口にのぞく衣のチェック。

これもセクハラか?とおもいきや
贅沢をしていないかどうかの検分らしい。

(右大将は酒席でも公務にまじめな
堅物だということ)

杯をもらうとみな芸を披露しなければならないようで
順番がちかづくとそわそわし,祝い言葉でやり過ごす…。

などなど。
いまの宴会風景とかわらない。

そうした酒の席で
公任が紫式部にジョークをかました。

という風情なのである。
まったくツヤっぽくない。

残念。
(なにを期待していたのか?)

法律でもって定めた
古典の日。

その起源がこんな宴会場面でいいのか?
ちょっと心配になった。

でも酒の席でのことだし
ま,いいか。

2012年11月14日水曜日

いずれ和泉か紫か?






『紫式部日記』(山本淳子=編・角川文庫)
を読んでいる。

もちろんビギナーズ・クラッシクスでだ。
べつにいばっていう話ではないが。

読んでるわけは
こうだ。

かなり込み入っているので,わからないかもしれない。
そのときは…しかたがない。

話しは本ブログの
11月5日の記事までさかのぼる。

読んだ人にはくどくてすみまないけれど
読んでない人のために,あらすじ。

さいきん法律で11月1日が
古典の日とさだめられた。

なぜかというと,『紫式部日記』の11月1日のところに
源氏物語に関する最古の記述があるからだ。

その日,芸事ならなんでもござれの藤原公任が
紫式部に「若紫さん」と呼びかけたらしい。

若紫さんは紫の上の若いころの呼び名で
源氏物語の巻名でもある。

この記事により11月1日は,源氏物語
=日本の古典に関する最古の記述のある日となった。

かくて11月1日が古典の日と
定められたのでした。パチパチ。

さればと思って古典を読んだのだが
ついつい『和泉式部日記』を読んでしまった。

和泉式部は魔性の女と呼ばれるほど
おおくの殿方たちと浮き名をながしているからだ。

おかたいイメージの紫式部より
和泉式部のほうを読みたくなるのは男として人情だろう。

だいたい男が女性関係で失敗するのは
このパターンだ。

………
いやいや,あくまで一般論だ。

ま,とにかく
それが11月5日のブログ記事だったわけだ。

でも,内心じくじたるものが
あった。

『紫式部日記』にもとづき
古典の日が定められた。

古典の日にちなんで
古典を読んでみた。

それがなぜ
『和泉式部日記』なんだ?

やはり『紫式部日記』も読んどかないと
まずくないか?

かくて『紫式部日記』を(も?)
読んでいるわけだ。

いわば,A子ちゃんの誕生会に呼ばれていったのに
気になるB子ちゃんとばかり話してしまい

ちょとしまったかなと思って
アリバイ的にA子ちゃんとも話す,みたいな感じだ。

しかし!読んでみて
衝撃の事実がわかった。

…仕事の時間になったので
つづきはまた。

2012年11月5日月曜日

『和泉式部日記』






11月1日は古典の日
日本の古典文学を顕彰する記念日。知ってました?

なぜ11月1日かというと,『紫式部日記』の
寛弘5年11月1日の記述が根拠。

その日,藤原公任が紫式部に
「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」と語りかけたらしい。

公任は,太政大臣までつとめた政治家で歌人
百人一首の歌はご存知でせう。
滝の音は たえて久しく なりぬれど
     名こそ流れて なほ聞こえけれ
さきの『大鏡』にも
「三船の才」をもつ人として紹介されています。

三船とは,道長が大堰川に浮かべた
漢詩の舟、管絃の舟、和歌の舟のこと。

それぞれの分野の名人を乗せたのですが
道長は公任に「どれにしますか?」と尋ねたとか。

公任が3分野ともに秀でていて
それを道長がほめたというエピソード。

若紫は,源氏物語の巻名
幼い紫の上のこと。上記場面では紫式部をさしています。

いまでいえば松山ケンイチのことを野田総理が
ふざけて「平清盛どの!」と呼ぶようなもの。

古典の日は,この記述が『源氏物語』に関する
歴史上はじめてのものであることから。

と,こう説明しても,なかなかピンとくる人がすくなかろう
という由緒でございます。

法律で
国の記念日となっています。

国にとやかくはいわれたくない気はしますが
乗せられやすいボクは一冊よんでみました。

『和泉式部日記』(川村裕子さん編・角川文庫)
やはりビギナーズ・クラシックスのシリーズで。

さきの経過からすると『紫式部日記』を
読むべきかと思います。

が,ちょっと前によんだ尾崎左永子さんの
『王朝文学の楽しみ』(岩波新書)で紹介されていたので。

日記といえば,われわれ庶民にとっては「夏休みの日記」
退屈なものの典型。

日記からわれわれを遠ざけているのは
この根強い思い込みでしょう。

でもなんと
『和泉式部日記』はちょっとちがいます。

恋おおき(10人以上と浮き名をながした)和泉式部
そんな退屈な毎日はおくっていません。

ときには
魔性の女とさえ呼ばれています。

そんな男性遍歴のなかで
トップ・スキャンダルは為尊親王,敦道親王との恋。

ふたりは兄弟
冷泉天皇の子で,三条天皇の弟たち。

日記の冒頭は
もとカレの為尊親王が亡くなって1年たったころ。

敦道親王とのあらたな恋が
スタートするところから。

現代でいえば,…
やめときましょう。

でも週刊誌を毎週にぎわす
トップニュースであることはまちがいなし。

古典ってこんなに面白かったんですねぇ~
では,さよなら,さよなら,さよなら…(淀川長治ふう)。

2012年1月11日水曜日

若 菜 by.山歩きの好きな福岡の弁護士



春の七種の別名「若菜」は、『源氏物語』の巻名にも。
長いので、上(34帖)、下(35帖)に分けられてます。

源氏40歳を祝う盛大な祝宴の際
玉鬘が長寿を祝う若菜を源氏にプレゼント。

王朝時代も、若菜にはやはり邪気を払い万病を除くという
呪術的な意味があったんですね。

これをうけて源氏が詠んだ歌。
(これが巻名の由来に。)

   小松原 末のよはひに 引かれてや

          野辺の若菜も 年を積むべき

源氏は社会的には絶頂です。
でもプライベートでは…

引退前の帝の希望で、女三の宮を新妻にむかえることに。
これにより最愛の紫の上との間に亀裂が

さらに、おいの柏木に新妻を寝取られることに。
…と若菜の効き目もあまりなさそう。

年末に「源氏物語 千年の謎」
をみました。

なにが紫式部に『源氏』を書かせたのか?
これが千年の謎。

事務所でもミタ人が複数いて
面白い、面白くないと評価がわかれていました。

なぜなのか?
よし、ひとつ自分の目でみて確かめてみよう、と。

さて私の評価は?
これは「ワカンナイ」ままにしておきましょう(そんなワカナ)。

                    ちくし法律事務所 弁護士 浦田秀徳