2021年8月16日月曜日

実盛の錦ー項羽の選択


小松の多太神社には、甲(かぶと)だけではなく、「錦の切れ」もありました。

「錦の切れ」の由来について、芭蕉は当然のこととして説明しなかったのでしょう。が、現代の読者には意味不明でしょう。平家物語や謡曲『実盛』には、その由来が説かれています。両者で少しニュアンスが異なりますが、ここでは謡曲のほうを引用しておきます。

 「また実盛が錦の直垂を着ること私ならぬ望みなり 実盛都を出でし時 宗盛公に申すよう 故郷へは錦を着て帰るといへる本文あり
 実盛生国は越前の者にて候ひしが近年御領に付けられて武蔵の長井に居住つかまつり候ひき このたび北国に罷り下りて候はば定めて討死つかつるべし 老後の思ひ出これに過ぎじ ご免あれと望みしかば赤地の錦の直垂を下し給はりぬ
 しかれば古歌にも 紅葉葉を分けつつ行けば錦着て家に帰ると人や見るらん と詠みしもこの本文なり
 さればいにしへの朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し 今の実盛は名を北国の巷に揚げ 隠れなかりし弓取りの名は末代にあり・・・」

実盛は、故郷が越前なので、その故郷に錦を飾りたかったのですね。

この「故郷に錦を飾る」という言葉は、みなさんもご存じでしょう。この言葉は、司馬遷の『史記』「項羽本紀」に由来しています。司馬遼太郎の古代中国小説に『項羽と劉邦』がありますが、その項羽です。

『項羽と劉邦』は、中国古代、漢の国が成立する時の話で、二大英雄の戦いを描いたものです。武力だけでいえば項羽が常に上回っていたのですが、人徳の大きさで結局のところ劉邦に負けてしまいます。

いま「キングダム」が人気ですが、あれは秦の始皇帝が建国する時代の話。秦帝国のあとが漢。『項羽と劉邦』の話は、その秦が滅び、漢が成立する直前の話です。

秦の都は関中にありました。関中の占領は劉邦のほうが早かったんですね。項羽はあとから関中に到着しました。勢力は項羽のほうが何倍も上です。劉邦は項羽に殺されそうになりながら、からくも関中を脱出します(鴻門の会)。

その後、劉邦は関中を焼き払ってしまいます。関中は四方が天険であり、ここを都とすれば項羽の勢力は安泰だったかもしれません。

そのように部下に諫められた際に、項羽が言った台詞がこうです。「富貴となって故郷に帰らないのは、錦をきて夜行くようなもの、誰にも知ってもられない」。

これが「故郷に錦を飾る」という言葉の由来です。この台詞の是非は歴史が証明しています。項羽は部下が諫めたとおり、故郷に錦を飾るより、関中を拠点として劉邦と対峙すべきだったでしょう。

『史記』が日本に輸入されて読み継がれるうち、「故郷に錦を飾る」という言葉は、いつしかよい意味に転化したのでしょうね。でなければ実盛も故郷に錦を飾りたいとは思わなかったでしょう。

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