2021年8月5日木曜日

越後路ー七夕の銀河


 



 酒田のなごり日を重ねて、北陸道の雲に望む。遥々の思ひ胸をいたましめて、加賀の府まで百三十里と聞く。鼠の関を越ゆれば、越後の地に歩行を改めて、越中の国市振の関に至る。この間九日、暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事を記さず。

 文月や六日も常の夜には似ず

 荒海や佐渡に横たふ天の河

 おくのほそ道は、そのタイトルからして、東北だけの旅だと思っている人もいると思います。しかし、そうではありません。東北をでて、北陸道、近江を経て、岐阜県の大垣まで旅をすることになります。

加賀の府は金沢、百三十里は520キロメートルです。毎日50キロメートル歩いても、10日以上かかります。暑いなか、何十キロも歩くのは難渋だったことでしょう。

鼠の関は、白川の関、勿来関(茨城と福島の県境、太平洋側)とともに、奥羽三関の一つ。山形と新潟の県境です。義経記には「念珠の関守厳しくて通るべき様も名ければ」とありますが、芭蕉は、尿前の関と異なり、難なく通れたようです。

市振の関は、新潟と富山の県境、白河の関、尿前の関とともに、おくのほそ道を4分する大事な関所です。

これまでタイトルは鶴岡・酒田とか、象潟とかだったのに、きょうは越後路。まことにおおざっぱ。越後の国(新潟県)の記述はわずか。さぞかし観光協会も嘆いておられることでしょう。文章でいえば中略という感じ。序・破・急の急だという人もいます。

芭蕉は省筆の理由を病によると説明しています。そうかもしれません。暑いなか、何十キロも歩くのは難渋だったからです。ただ越後には、鶴岡や酒田のように、お・も・て・な・しをしてくれるお弟子さんたちがいなかったせいかもしれません。

しかし、転んでもただでは起きないというか、芭蕉はここで、この旅で最上とされる名句を詠んでいます。季節はいつしか秋。♪いまはもう秋、だれもいない海・・。文月、天の川ともに秋の季語です。

文月はの句はこれだけを読んでパッとわかる人は少ないでしょう。文月は7月、文月7日は七夕。新暦でいうと8月14日です。新暦8月7日が立秋なので、今年のようにどんなに暑くても、8月14日は秋です。

芭蕉らは旧歴7月6日直江津に着きました。直江津は親鸞が流された地です。森鴎外『山椒大夫』(安寿と厨子王)の舞台としても知られます(平安時代末、安寿と厨子王の父は、陸奥国の役人であったところ、上役の罪に連座して筑紫国に左遷されています)。

芭蕉らが着いたとき、直江津は七夕の前夜祭でした。七夕は、織姫と彦星が天の川をはさんで、年に一度のデートの日。

お祭りムードで、夜店も出店し、人々は浴衣を着ていたことでしょう。それで7日ではないけれども、6日も常の夜とは違ってワクワクしていたというわけです(人さらいに遭わないよう、わたしの手を離さないで!)。

佐渡島まで日本海の荒海をはさんで新潟から45キロメートル。古くは承久の乱に敗れた順徳院も流されています。鎌倉幕府に敗れたのは、義経や奥州藤原氏だけではないのです。

百人一首は、天智・持統親子による明るいイメージの歌ではじまり、最後は後鳥羽・順徳院親子の暗いイメージの歌で終わっています。その順徳院の歌はこれ。

 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり

宮中は軒端にしのぶ草が茂って寂れている、天智・持統の昔はよかったなぁ(いまの時代、われわれは鎌倉の武家政権におされて青色吐息であるよ)。承久の乱は、この歌が詠まれた5年後・・・。

順徳院にはじまり、江戸時代にも罪人が多数流されています。罪人たちは金山で働かされました。金華山につづき、ここでも金山のイメージです。

そのような佐渡の歴史におもいをはせていて、ふと夜空を見上げると、天の河が横たわっています。なんという雄大な景観。人間界の小さなことどもが吹き飛んでしまいました。

日本海を天の川だと見立てると、七夕の夜、こちら岸のわれわれにたいし、島では美しい女性との出会いがまっていたかもしれませんね。昨夜の縁日につづき、そんなロマンチックな気分にさせてくれます。

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