2021年8月26日木曜日

福井ー夕顔







 福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出づるに、黄昏の道たどたどし。
 ここに等栽といふ古き隠士あり。いづれの年にか江戸に来たりて予を尋ぬ。遙か十年余りなり。いかに老いさらばひてあるにや、はた死にけるにやと、人に尋ねはべれば、いまだ存命してそこそこと教ふ。
 市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に夕顔・へちまの延へかかりて、鶏頭・箒木に戸ぼそを隠す。さてはこの内にこそと、門をたたけば、詫しげなる女の出でて、「いづくよりわたりたまふ道心の御坊にや。あるじはこのあたり何某といふ者のかたに行きぬ。もし用あらば尋ねたまへ」と言ふ。かれが妻なるべしと知らる。
 昔物語にこそかかる風情ははべれと、やがて尋ね会ひて、その家に二夜泊まりて、名月は敦賀の港にと旅立つ。等栽もともに送らんと、裾をかしうからげて、道の枝折りと浮かれ立つ。

 福井駅の西口をでると駅前に恐竜広場。そこから北に行くと福井城跡があります。徳川家康が縄張りをし、江戸時代・越前松平氏の居城跡ですが、天守閣は残っていません。

そこから南に商店街を抜けると、北の庄の城跡があります。柴田勝家の居城跡です。ここはもう石垣の跡が残っているだけです。写真中央に柴田勝家像がちいさく見えています。

福井駅から越美北線で東に向かうと5つめに一条谷駅があります。しばらく歩くと一条谷で、朝倉氏の居館跡などがあります。『麒麟が来る』で、長谷川博己がユースケサンタマリアの世話になったところです。

それぞれ、戦国時代に朝倉→柴田(織田)→豊臣→徳川の各大名が興っては滅びた兵どもが夢の跡です。

勝家の北の庄城跡からさらに南に足羽川をわたり、すこし行くと左内公園に着きます。幕末の志士、橋本左内の墓があります。越前は松平春嶽をはじめ、明治維新の原動力になりましたが、薩長土肥に比べ影が薄いですね。

芭蕉が世話になった等栽の家は、この左内公園にありました。「市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に夕顔・へちまの延へかかりて、鶏頭・箒木に戸ぼそを隠す」とあったものの、いまは子どもの遊具になっています。

芭蕉の描写は、源氏物語の夕顔の段を俤にしています。

「かの白く咲けるをなむ夕顔と申し侍る。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になん咲き侍りける。」と申す。
 げにいと小いへがちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひてむねむねしからぬ軒のつまなどに這ひまつはれたる・・むかしの物語などにこそかかる事は聞け、といとめづらかに・・・

関西が近づいてきたせいでしょうか、須賀川の栗斎などとちがい、隠士といっても、等栽はずいぶん関西テイストです。

左内公園にいま等栽の家のあとは残っていませんが、芭蕉の句碑はあります。

 名月の見所問ん旅寝せむ

句碑もおしゃれ、名月のデザインです。

さて本日もクイズ、本日の投稿にあきらかな誤りがあります。どこでしょう?

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