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2024年5月21日火曜日

清・少納言って誰?(4)

 


 夜をこめて鳥のそらねははかるとも
         よに逢坂の関はゆるさじ  清少納言

 夜が明けていないのに、かの孟嘗君の食客のように、鶏の鳴き真似をしてだましても、逢坂の関の関守はだまされませんし、私もだまされて、すぐ戸を開けてあなたと逢ったりはしませんよ。

 逢坂の関で足止めをくらっているうちに、義同三司母の息子たちは没落へ向かっていた(長徳の変 996年)。中宮定子(高畑允希)も巻き添えを食い、サロンの一員である清少納言(ファーストサマーウイカ)も無縁ではいられなかった。義同三司の往生際の悪さを庭から覗き見することはなかったろうが。

先の歌は百人一首の62番。この歌が詠まれた経緯は、清少納言のエッセイ『枕草子』に詳しい。『枕草子』はいうまでもないだろうが、

 春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。・・

という、あれである。

     

 この歌が詠まれた相手の男性は藤原行成(渡辺大知)。道長の全盛期を支えた四納言の一人。他の三納言は、源俊賢(本田大輔)、公任(町田啓太)、斉信(金田哲)。行成は、能書家・三蹟の一人であり、また宮廷日記『権記』を書き残している。


清少納言は後宮という役所の秘書官みたいなものであるから、能吏であった行成や斉信とも親しかった。かれらとの交流は『枕草子』のところどころに書かれている。百人一首の歌が詠まれた下りは136段。

ある夜、清少納言が行成と談笑していたところ、行成は宮中で用事があると言って急遽帰ってしまった。

翌朝、行成は「昨夜は夜明けを告げる鳥の声にせきたてられたので。早く帰って申しわけありません。」などと見え透いた弁解を入れてきた。それに対する清少納言の返しの皮肉がこの歌。 

かの孟嘗君の食客のように、鶏の鳴き真似をしてだましたという故事は、漢籍『史記』に基づく。「孟嘗君列伝 第十五」。

孟嘗君は、秦の昭蕘王のもとから命がけで逃げていた。夜中に函谷関にたどりついた。函谷関の関守は一番鳥が鳴かないと関を開けない。孟嘗君が困っていたところ、従者の一人が鳥の鳴き真似が上手だという。じっさいにやらせてみたら上手で、本物の鳥たちも呼応して鳴き出し、関守も門を開けてくれ、孟嘗君は窮地を脱することができた。

行成さま、あなたがかの孟嘗君の食客のように、鶏の鳴き真似をして私をだまそうとしても、逢坂の関の関守はだまされませんし、私だってだまされて、すぐ戸を開けてあなたと逢ったりはしませんよ。

清少納言の和歌はこの故事を踏まえたもの。行成の弁解をとっさに孟嘗君の鳥の鳴き真似にたとえた。函谷関の関守はだませても、逢坂の関の関守も私もだまされなくてよ。うふふ。

さて気になるのは、清少納言と行成との男女の仲。残念ながら?皆の期待を裏切り、できる女性上司と後輩男子とのやりとりにとどまったようだ(清少納言が6歳年長)。

清少納言は男女の仲より、こういう互いの教養をたしかめあうやり取りのほうが好きだったのだろう。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2021年8月16日月曜日

実盛の錦ー項羽の選択


小松の多太神社には、甲(かぶと)だけではなく、「錦の切れ」もありました。

「錦の切れ」の由来について、芭蕉は当然のこととして説明しなかったのでしょう。が、現代の読者には意味不明でしょう。平家物語や謡曲『実盛』には、その由来が説かれています。両者で少しニュアンスが異なりますが、ここでは謡曲のほうを引用しておきます。

 「また実盛が錦の直垂を着ること私ならぬ望みなり 実盛都を出でし時 宗盛公に申すよう 故郷へは錦を着て帰るといへる本文あり
 実盛生国は越前の者にて候ひしが近年御領に付けられて武蔵の長井に居住つかまつり候ひき このたび北国に罷り下りて候はば定めて討死つかつるべし 老後の思ひ出これに過ぎじ ご免あれと望みしかば赤地の錦の直垂を下し給はりぬ
 しかれば古歌にも 紅葉葉を分けつつ行けば錦着て家に帰ると人や見るらん と詠みしもこの本文なり
 さればいにしへの朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し 今の実盛は名を北国の巷に揚げ 隠れなかりし弓取りの名は末代にあり・・・」

実盛は、故郷が越前なので、その故郷に錦を飾りたかったのですね。

この「故郷に錦を飾る」という言葉は、みなさんもご存じでしょう。この言葉は、司馬遷の『史記』「項羽本紀」に由来しています。司馬遼太郎の古代中国小説に『項羽と劉邦』がありますが、その項羽です。

『項羽と劉邦』は、中国古代、漢の国が成立する時の話で、二大英雄の戦いを描いたものです。武力だけでいえば項羽が常に上回っていたのですが、人徳の大きさで結局のところ劉邦に負けてしまいます。

いま「キングダム」が人気ですが、あれは秦の始皇帝が建国する時代の話。秦帝国のあとが漢。『項羽と劉邦』の話は、その秦が滅び、漢が成立する直前の話です。

秦の都は関中にありました。関中の占領は劉邦のほうが早かったんですね。項羽はあとから関中に到着しました。勢力は項羽のほうが何倍も上です。劉邦は項羽に殺されそうになりながら、からくも関中を脱出します(鴻門の会)。

その後、劉邦は関中を焼き払ってしまいます。関中は四方が天険であり、ここを都とすれば項羽の勢力は安泰だったかもしれません。

そのように部下に諫められた際に、項羽が言った台詞がこうです。「富貴となって故郷に帰らないのは、錦をきて夜行くようなもの、誰にも知ってもられない」。

これが「故郷に錦を飾る」という言葉の由来です。この台詞の是非は歴史が証明しています。項羽は部下が諫めたとおり、故郷に錦を飾るより、関中を拠点として劉邦と対峙すべきだったでしょう。

『史記』が日本に輸入されて読み継がれるうち、「故郷に錦を飾る」という言葉は、いつしかよい意味に転化したのでしょうね。でなければ実盛も故郷に錦を飾りたいとは思わなかったでしょう。

2021年3月4日木曜日

換骨奪胎

 


事務所である文書をつくることになりました。
後輩弁護士が起案担当だったのですが、大事な文書なのでついぼくが下案を書きました。

後輩がそれに手を入れるというので、換骨奪胎しないでよ!と注文しました。換骨奪胎について、作品の不当なパクリを意味すると理解し、悪いイメージの言葉として使用しました。

念のため換骨奪胎の意味を確認してみると、なんと、本来は肯定的な意味あいの言葉のよう。すなわち、

「古人の詩文の表現や発想などを基にしながら、これに創意を加えて、自分独自の作品とすること。他人の詩文、また表現や着想などをうまく取り入れて自分のものを作り出すこと」(三省堂 新明解四字熟語辞典)。

和歌における本歌取りのような意味でしょうか。四字熟語は中国の古典からとられ、簡潔な表現のせいか、このように意味が反転してしまう例がすくなくないように思います。

四字熟語ではないのですが、すこしまえ、知り合いの弁護士が、困難な問題について、断じて行えば鬼神も之を避くと述べていました。つまり、よい意味で引用されていました。

なつかしく思いました。ぼくも大学時代にこれを引用したことがあったからです。やはりよい意味で引用しました。

しかし、今般、出典をしらべてみました。手元に『史記』があったからです。するとなんと、これは趙高が李斯に暗殺をうながすときの言葉だったのです。

あのキングダムで有名になった秦の始皇帝の死後の事件。趙高は宦官であり、平家物語の冒頭にも出てくる歴代の悪役の1人。李斯は秦の宰相、暗殺対象は始皇帝の優秀な子どもです。このため秦は優秀なリーダーを失い、短時日で滅びてしまいます。

大学時代の文書の詳細は覚えていませんが、引用の過ちを40年ぶりに知りました。

過ちては即ち改むるに憚るなかれ。当職も、最高裁判事にならい、論語の教えにしたがい、40年前の過ちを訂正させていただきます。ごめんなさい。

(写真は、四王寺山の岩屋城跡にて、どなたかが並べた落ち椿の作品。ニコライ・バーグマンふう。それを美しく撮影してみました。よい意味で換骨奪胎できていればよいのですが。)