2010年12月22日水曜日

 苦悩を越えて 


 きょうは冬至
 いつの間にか、年の瀬、「第9」の季節となっています。
 みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 エウリピデスよりソフォクレスの好きな「僕」は
 オイディプス王であろうと、まえに書きました。
 (「運命に立ち向かう」参照)

 オイディプス王の神話は概略つぎのような話です。

 オイディプスは、知らずにテバイ王である父を殺してしまう。その後
 スフィンクスを退治した功によってテバイの王座と王妃を手に入れる。
 しかし、やがて彼が殺したのは父、妻としているのは母であることが
 明らかになり、母は縊死し
 オイディプスも自らの両眼をえぐり出して放浪の途につく。

 僕がオイディプス王だとすると、問題はその両親ですが
 キズキと直子が父と母ではないでしょうか。
 (もちろん、象徴的な意味で)

 この読みは突飛なようですが
 おおくの情況証拠によって裏打ちすることができます。

 キズキが先に死ぬこと
 その後、僕が直子と交わるということ
 キズキの死によって僕のアドレセンスとでも呼ぶべき機能の一部が
 永遠に損なわれたこと
 これにより、たえず彷徨うことになったこと
 僕が二十歳(大人)になり、緑と愛しあうようになったこと
 その後、直子が縊死したこと
 などがそうです。

 また傍証として、どうして泣いているのかと訊いた漁師に
 「母が死んだからだと僕は殆ど反射的に嘘をついた」ことや

 レイコさんが大家さんに
 「あなたの母方の叔母で京都から来たってことにしとくから」
 といっていることなどが挙げられます。

 勘のするどい緑もこう推論しています。
 「私はワタナベ君のつきあっている相手は人妻だと思うの」

 こうして、象徴的な意味で少なくとも直子が僕の母であると
 読むことができそうです。

 そうだとすると、「ノルウェイの森」は
 母が大好きだった僕(エディプス・コンプレックスの)
 が成長して大人になり
 同じような困難(エレクトラ・コンプレックス)
 を抱えた緑と愛しあうようになる物語
 として読むことができそうです。

 民法の大家にその名も我妻栄という先生(故人)がおられました。
 我妻先生は結婚についてこう比喩されていました。

 結婚は、川に杭を2本打ち
 その間に網をはって魚を捕るようなものだ。
 杭の間隔が広ければ、不安定だが、おおくの魚が捕れる。
 狭ければ、安定するが、おおくの魚は捕れない。

 出自や性格がちがうものどうしのばあい、杭の間隔は広くなりますし
 似たものどうしのばあい、狭くなります。

 僕と緑のばあい、似たものどうしなので、わかりあえる点もおおい
 けれども、ふたり分の困難を抱えている分だけ
 そうとう困難な道のりが予想されます。
 でも、それを乗り越えてぜひとも幸せになってほしいと思います。
 (なんか、結婚式のスピーチみたいになりました)
 

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