ラベル ノルウェイの森 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ノルウェイの森 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年12月20日火曜日

『クライマーズ・ハイ』(6) by.山歩きの好きな福岡の弁護士



 去年の今ごろ、『ノルウェイの森』は「魔の山」
 =阿美寮に登って下りてくる話だと書きました。

 『クライマーズ・ハイ』も、主人公・悠木が「魔の山」に挑みます。
 しかも2つ。

 ひとつは、日航機事故の報道=御巣鷹山
 ふたつは、谷川岳(衝立岩)。

 谷川岳のほうも
 779人(『クライマーズ・ハイ』)もが遭難死した魔の山。

 悠木は、1985年8月12日夕、谷川岳に向かおうとした矢先
 日航機事故の報に接し、こちらのほうの魔の山に挑むことに。

 しかもいつもの自由な行動は許されず、日航全権デスクに任命され
 リーダーとして会社組織を率いることを強いられます。

 大久保事件・連合赤軍事件の手柄をいつまでも自慢したい上司らは
 日航機事件を若手の手柄にさせじと妨害工作をしかけてきます。

 これまで気ままな友軍記者をやっていた悠木は若手とのパイプも細く
 彼らをうまく指導していけるか不安がいっぱい。

 悠木の所属する地方新聞社は、未曾有の大事件に取り組むには
 スタンスが定まりませんし、人的・物的装備も不足しています。

 悠木は生い立ちに引け目があり、自分の息子との関係をはじめ
 社の上司、部下らの人間関係にいまひとつ自信がもてません。

 こうした不安要素をいくつも抱えながら
 魔の山に果敢に挑んでいきます。

 『クライマーズ・ハイ』が刊行された2003年当時は
 先に書いたとおり、薬害肝炎事件を立ち上げたばかりのころ。

 こちらも1万人以上といわれる未曾有の薬害被害者を出した
 大惨事。

 原告団、支援者、若手弁護士や他地域の弁護団と協働しつつ
 被告の国や製薬大企業と裁判闘争をすすめていく必要がありました。

 なので
 悠木の巻き込まれた立場、心情にはおおいに共感しました。

            ちくし法律事務所 弁護士 浦田秀徳

2011年12月12日月曜日

『ヒア・カムズ・ザ・サン』



 昨年末は映画の封切りということもあって
 『ノルウエィの森』のことをいろいろと書いてました。

 だからというわけでもなく
 本年末は『ヒア・カムズ・ザ・サン』。
 やはりビートルズ(J・ハリスン)のナンバーですが
 若い人は知らないか?

 村上春樹さんの『ノルウェイの森』は四季のもつ「喪失と再生」力
 をベースに書かれていました。

 『ヒア・カムズ・ザ・サン』も、長かった冬に別れを告げ
 春が来たことを歓迎するという歌。

 ま、「冬来たりなば春遠からじ」(シェリー)
 年末の話題として春の到来を期待する話は許されるでしょう。

 同名のタイトルで、有川浩さんが
 小説を書かれました(新潮社)。
 文芸の世界は、無から作品を生じさせるというより
 誰かの注文に応じて制作されることが多かったのではないでしょうか。

 王朝の歌会の歌題から
 『笑点』の『大喜利』の出題まで…といえば飛躍があるでしょうか。

 人間のやることですから
 そのほうが自然です。

 『ヒア・カムズ・ザ・サン』の注文は
 以下の卵(着想)を雛(小説)に孵すというもの。

  「真也は30歳。
  出版社で編集の仕事をしている。

  彼は幼いことから、品物や場所に残された、人間の記憶が見えた。
  強い記憶は鮮やかに。何年経っても、鮮やかに。

  ある日、真也は会社の同僚のカオルとともに成田空港へ行く。
  カオルの父が、アメリカから20年ぶりに帰国したのだ。

  父は、ハリウッドで映画の仕事をしていると言う。
  しかし、真也の目には、全く違う景色が見えた…。」

 有川浩さんは、この卵から2とおりの雛を孵してます。
 『ヒア・カムズ・ザ・サン』と『ヒア・カムズ・ザ・サンParallel』。

 表題どおり
 後者はパラレルワールド。

 そうであれば、まだまだ幾通りものアナザー・ストーリーがあるはず。
 みなさまもひとつ孵されてはいかが?

 そうすれば
 オリジナルな輝かしい世界がつかめるかも?(カバー参照)。

2011年4月15日金曜日

 「月と蟹」


 後鳥羽上皇や順徳院を承久の乱で破り
 彼らを追放した武家政権の所在地が鎌倉。

 鎌倉散策はだいすきですが、京都と比べると
 「太陽と月」というか、すこし陰なイメージ。

 その鎌倉を舞台にしたのが
 道尾秀介さんの「月と蟹」(文藝春秋)。

 ちょっと、びっくりしました。道尾さんは
 もっとキワモノを書いているのかと思っていたので。

 「ノルウェイの森」で、ワタナベが寮の先輩・永沢さんから
 借りていた本が、ジョゼフ・コンラッドの「ロード・ジム」。
 
 遭難した老朽船パトナ号に800人の乗客を残したまま、船を見捨てて
 船長ら3人とボートで「脱出」してしまった一等航海士ジム。

 その人生が船乗りマーロウの言葉により語られるのですが
 彼は我々にこう問いかけます(柴田元幸訳・河出書房新社)。

 「率直に言って、私が不審の念を抱いているのは
 私の言葉ではなく君たちの心だ。

 もし君らが、肉体に糧を与えるために想像力を
 枯渇させてしまっていなければ、私としても雄弁になれるだろう。

 失礼なことを言っているつもりはない。幻想を持たないのは
 まっとうなことだしー安全だしー儲かるしー退屈だ。

 けれど君たちだって、かつては生の強烈さを、些細な事どもの
 衝撃の中で生み出されるあの魅惑の光を知っていたはずだー

 冷たい石から打ち出された火花の閃きに劣らず驚異的な
 そして、ああ、同じくらい儚い光を!」

 「月と蟹」は、我々がかつて知っていた「些細な事どもの衝撃の
 中で生み出されるあの魅惑の光」「儚い光」を思い出させてくれます。

 ご一読ください。
 

2011年2月10日木曜日

 ピツァとベルリーニとプロセルピナ



 だいぶ脱線しましたが、そもそもの謎はピツァの食べ分け場面でした。

  僕がよく行くピツァ・ハウスに彼女をつれていって生ビールとアンチョビの
  ピツァを注文した。僕はそれほど腹が減っていなかったので十二ピースの
  うち四つだけを食べ、残りを緑が全部食べた。

                 (村上春樹「ノルウェイの森」第九章)

 緑が残りを全部食べたのは、お腹が減っていたからでしょうか
 それとも、ほかになにか意味があるのでしょうか?という謎でした。

 僕にとって最高の書物はジョン・アップダイクの「ケンタウロス」だった
 ならば、ピツァの話もギリシャ神話をベースにしているはず…。

 ローマを観光すると教会、泉・噴水に彫刻がおおいことにきづきます。
 一番有名な泉は「ローマの休日」に出てきた「トレヴィの泉」でしょう。 
 
 最近では、①バルベリーニ広場の「トリトーネ」や
 ②ナヴォーナ広場の「四大河の噴水」の彫刻が有名でしょうか?

 教会彫刻だと、③サンタ・マリア・デル・ポポロ教会の「ハバククと天使」
 ④サンタ・マリア・デラ・ヴィットリア教会の「聖女テレサの法悦」。

 こうなると、知らないなぁという人も多いはず。①~④の共通点は
 「天使と悪魔」に出てきたベルニーニの彫刻作品だということです。

 ベルニーニ(1598~1680)は、バロックの時期を代表する彫刻家で
 江戸時代はじめの狩野探幽(1602~74)らと同時代人です。

 「天使と悪魔」には出てきませんでしたが、おなじベルニーニの作品に
 「プロセルピナの略奪」があります。

 バルベリーニ広場から北にいくとボルゲーゼ公園があり
 そのなかにある国立ボルゲーゼ美術館で見ることができます。

 冥界の王プルートが一目ぼれした女神の娘プロセルピナを連れ去ろうとする
 瞬間を彫刻化したものです。

 ギリシャ・ローマ神話は前に書いたとおり親分のゼウス(ジュピター)から
 肉食系なので略奪愛の話がいっぱいです。

 よく似た作品に「アポロとダフネ」があります。ダフネが月桂樹に変身する
 瞬間を彫刻化したもので、腕が枝葉になりつつところが印象的です。

 ベルニーニが日本人であれば、在原業平による藤原高子の略奪愛をテーマに
 彫刻をつくったかもしれません。

 略奪されたプロセルピナは、ギリシャ神話ではペルセポネー
 その母は豊饒神「母なる大地」のデメテルです(トレヴィの泉の左像)。

 母デメテルはゼウスに抗議するも、取りあってもらえなかったため激怒し
 オリュンポスを去って身を隠し、大地に実りをもたらすのをやめます。

 このエピソードはアマテラスがスサノオの乱暴に激怒し
 天岩戸に隠れてしまった話とよく似ています。

 ゼウスはハーデス(プルート)にペルセポネーを解放するように伝え
 ハーデスはこれに応じる形でペルセポネーを解放します。

 その際、ペルセポネーはハーデスが差し出したザクロの実12粒のうち
 4粒を空腹から食べてしまったのです。

 冥界の食べ物を食べた者は、冥界に属するという神々の取り決めがあり
 ペルセポネーは1年12月のうち4月を冥界で暮らすようになりました。

 デメテルは娘が冥界にいる時期だけ地上に実りをもたらすのを中止
 これが冬という季節の始まりなのです。

 くだんのピツァを食べ分けるシーンは、このギリシャ神話を踏まえ
 緑がその名前のとおり地上に実りをもたらす存在であることを
 示唆しているわけです(たぶん)。

 宮崎アニメ「千と千尋の神かくし」のなかではトンネルのむこうで
 両親が神々の料理を食べ、豚になってしまいます。

 食事をすると、ただ単に空腹をいやすという以上の
 浅からぬ意味が生じるようです。

 高校生のときのデートで彼女の手作りのサンドイッチを食べたときのことは
 今でも鮮明に覚えています。
 

2011年2月9日水曜日

 春の女神とアドニスと金星



 村上春樹さんの「ノルウェイの森」に  

  18歳の年の僕にとって最高の書物はジョン・アップダイクの
  「ケンタウロス」だった…。
 
 とあることから「ケンタウロス」をぜひ読みたいと思ったところ
 残念ながら絶版中でした。

 Amazonで検索すると3566円で古本がでており
 (けっこうなお値段にひるみましたが)買いました。

 「ケンタウロス」の舞台は、現代アメリカの田舎町と
 ギリシャ神話のオリンポスのハイブリッド。

 物語の途中で、いつの間にかオリンポスの世界になったり
 いつの間にか現代アメリカに戻ったり。

 「ノルウェイの森」の執筆はギリシャ等でなされているので
 村上さんの頭のなかもギリシャの神々が行き交っていたことでしょう。 

 ギリシャ神話の親分はゼウス、その親分からして異常に好色な神なので
 ギリシャ神話全体がどうしてもエロチックにならざるをえません。

 それを現代アメリカ社会にもちこむのですから
 「ケンタウロス」もいい感じにエロチックです。

 うっかり読んでいると、主人公の高校教師コールドウェル(ケイロン)は
 校舎内を歩いていたはずなのに…

  ヴェラが蒸気に包まれて目の前に立っていた。青いタオルが体からなまめ
  かしくずり落ちると、琥珀色の陰部が露のしずくに白く光っていたっけ。

  「わたくしの兄のケイロンはなぜサテュロスのように口をあけたまま立っ
  ているのでしょう?神々の姿はケイロンも見なれているはずですのに。」
 
  「女神アプロディテよ。」

 …という具合に、おなじ高校の女性教師ベェラがたちまち
 愛と美と性を司る女神アフロディテに変身してしまいます。

 アフロディテは生殖と豊穣を司り
 ということは春の女神でもあります。

 わが法律事務所では年2回
 春と夏にニュースを発行しています。

 今春号はご遺族のご厚意で小川蓮太郎先生の画を2枚
 掲載させていただきました、そのうちの1枚が「アネモネ」。

 アフロディテはアドニスの美しさに惹かれ、かわいがっていたところ
 彼は狩猟の最中に野猪の牙にかかって死んでしまいました。

 女神は嘆き悲しみ、自らの血をアドニスの倒れた大地に注ぎ
 その地から芽生えたのがアネモネです。

 ひとつの花の由来さえ、このように
 美しく説明する古代ギリシャ人の感性に親近感をおぼえます。

 古代ギリシャ人たちがアフロディテと呼んでいた神を
 古代ローマ人たちはヴィーナスと呼びました。

 古代ローマ人やヨーロッパの人々がキリスト教を信仰するようになり
 異教となったギリシャ・ローマの神々への信仰は廃れました。

 ギリシャ・ローマの神々が再生(再誕生)したのはルネッサンス期
 ボッティチェリは「ヴィーナスの誕生」を描きました。

 先ほどのケイロンがアフロディテと遭遇した場面も
 「ヴィーナスの誕生」を彷彿とさせます。

 おなじく「春(プリマベーラ)」もまたヴィーナスを中心に描いたもの
 どちらもフィレンツェのウフィッツィ美術館でみることができます。

 ボッティチェリ(1445-1510)はガリレオ(1564-1642)より1世紀以上
 前の人ですから、異教の神を描くことにかなり勇気がいったと思います。

 それでもボッティチェリがヴィーナスを描いたのは
 その愛と豊饒の力に魅せられたからでしょうか?

 昨年、事務所のメンバーで神戸に行ったさい、
 夜景をみようということになりました。

 ビュー・ポイントを地元の人に尋ねると、
 「キンセイダイ」という人と「ヴィーナスブリッジ」という人と…。

 迷ったすえに「キンセイダイ」に言ってみると「ヴィーナスブリッジ」と
 おなじところでした。

 金星台とは神戸市中央区の諏訪山にある展望台。ここと諏訪山展望台を繋ぐ
 螺旋橋の愛称がヴィーナスブリッジ。

 1874年にフランスの天体観測隊が、金星の太陽面通過の観測をこの地で
 おこない、それにちなんで命名されたとのことです。

 ギリシャ・ローマ神話の素養がしっかりしていて
 金星=ビーナスとピンとくれば、簡単にとけた謎でした。

 というわけで、ジョン・アップダイクの「ケンタウロス」
 (古本ですが)ご一読ください。
 

2011年2月7日月曜日

 春の緑とリスとピツァ



 春の話題をもうすこし。

 北海道は洞爺湖の北に立つ百名山、後方羊蹄山(蝦夷富士)に登り
 倶知安・半月湖へくだる森でのことです。

 エゾリスが樹から降りてきて、山道にちょこんとすわって(ノル・ウェイ)
 エゾマツの実をついばみ、食べ終わると去っていったことがありました。

 まるで遠来の登山者に寸劇を披露して去ったという感じ
 北海道のリスは芸達者でもてなし上手だなぁと感動しました。

  今僕の前に座っている彼女はまるで春を迎えて世界にとびだしたばかりの
  小動物のように瑞々しい生命感をほとばしらせていた。

                 (村上春樹「ノルウェイの森」第四章)

 緑のことを思い浮かべると、羊蹄山のエゾリスのしぐさを思い出します。
 さてそんな緑が父を亡くしたあとのデートでのことですが…。 

  僕がよく行くピツァ・ハウスに彼女をつれていって生ビールとアンチョビの
  ピツァを注文した。僕はそれほど腹が減っていなかったので十二ピースの
  うち四つだけを食べ、残りを緑が全部食べた。

                 (村上春樹「ノルウェイの森」第九章)

 緑が残りを全部食べたのは、お腹が減っていたからでしょうか
 それとも、ほかになにか意味があるのでしょうか?

 物語のはじめのほうに僕が好きな本が紹介されています。

  18歳の年の僕にとって最高の書物はジョン・アップダイクの
  「ケンタウロス」だった…。

                 (村上春樹「ノルウェイの森」第三章)

 「ケンタウロス」は現代アメリカの田舎町の高校教師の親子愛を
 ギリシャ神話をベースに、あるいは、混交させながら描いたもの。

 そうであれば、緑と僕のピツァのエピソードも
 ギリシャ神話をベースにしているはず…。
 

2011年1月12日水曜日

 タイガーマスク復活


   (雪面に残る生き物の足跡 虎ではないと思いますが姿はみえず)

 40年前、1970年ころは村上春樹さんが大学生だったころ
 それもあり「ノルウェイの森」の舞台になっています。

 私は村上さんよりちょうど1世代若いので
 そのころまだ思春期の入り口、小学校高学年でした。

 岸和田で育ったため、友だちと千里で開催された大阪万博に行ったり
 役行者ゆかりの葛城山、金剛山、岩湧山などに登ったりしていました。

 ちょうどカラーテレビが普及した時代で
 家に帰ったら親に叱られながら毎日2時間はアニメを見ていました。

 カラーでみる「巨人の星」などはめくるめく体験で
 (実際、魔球なぞ投げていましたし)
 いまの3D体験など比較にならないほどの衝撃映像でした。

 当時、40年後にも支持されているアニメはなにか?
 と訊かれれば、「巨人の星」か「アタックナンバー1」と
 答えたでしょう。それが…

 まず「ゲゲゲの鬼太郎」
 これはまったくもって意外、当時誰も予想できなかったのでは?
 まして太宰府天満宮の参道でグッズが売られるようになるとは…
 恐るべし、妖怪パワー。

 そして「タイガーマスク」=伊達直人
 たしかに熱狂しましたが、星飛馬や鮎原こずえを押さえて
 返り咲くとはこれも予想外。

 さすが、だてに虎の穴で鍛えられたわけではないようです
 虎穴に入らずんば孤児を笑ず。

 普通の人々が自分たちの「虎の子」を寄付しているとなれば
 なおいっそう胸が熱くなります。
 

2011年1月10日月曜日

 春の雪



 きょうは成人の日
 新成人のみなさん、成人おめでとうございます。

 わが家にも新成人がいるのですが
 まだまだ子ども、大丈夫でしょうか…。

 ま、かくいう自分も大人になったなぁと自覚したのは
 結婚して第1子が生まれたあたり(26歳)だったので
 子のことばかりはいえません。

 この正月も実家に帰っていた際、ちょっと外出して
 戻りが遅くなったところ、心配した親から携帯に安否確認
 親からすれば、いつまでたっても子ども(51歳なのに)。

 「ノルウェイの森」の直子も
 「私、二十歳になる準備なんて全然できてないのよ。変な気分。
 なんだかうしろから無理に押し出されちゃったみたいね」
 と当惑しています。

 でも早く大人になりたいというむきもあるし
 いつまでも子どもでは社会がなりたたないので
 昔から成人(元服)制度が存在するわけです。

 民法上年齢20歳をもって、成年とされています(4条)。

 未成年者の法律行為は親の同意がなければ取消すことができる(5条)
 として保護されていましたが、大人になれば保護されなくなります。

 クレジット販売を悪用した街頭での長期間にわわるエステ販売や
 高額な英語教材のだまし売りなどはこの制度で救済できるのですが
 これからはそれもできなくなります。

 高齢者になって認知症がでてくれば、ふたたび成年後見制度により
 保護されうるようになるのですが(843条)、まだだいぶ先のこと。

 結婚は、男18歳、女16歳からできるのですが(731条)
 成人になれば父母の同意が要らなくなります(737条)。

 犯罪(刑事事件)もこれからは少年法ではなく
 大人として裁かれることになります(少年法2条)。

 成人のばあい、基本的に「罪と罰」という応報刑主義
 「少年時代」のような健全育成への教育的配慮はなくなります。

 さらに大事なのは選挙権
 衆・参の議員の選挙権を有することになります(公選法9条)。

 国会議員などの公務員を選定し、及びこれを罷免することは
 憲法が保障する国民の人権です(憲法15条)。

 むかしは選挙権がない時代、お金がないと選挙権がない時代
 女性には選挙権がない時代などありました。

 われわれ一人一人が平等に選挙権を有するようになったのは
 人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果です(憲法97条)。

 自由獲得の努力は往々にして命がけのものでした。

 このようにして獲得された人権はわれわれの不断の努力によって
 これを保持しなければならないと要請されています(憲法12条)。

 新成人のみなさんも先輩たちの努力におもいをいたし
 選挙権をはじめとする人権を大事にしてくださいね。

 さて今日はあいにく雪になってしまいました
 でも心配はいりません
 みなさんの門出に「春の雪」は良い兆しです。

 春の雪は、古代から米の花の前兆であり
 豊作を約束するめでたい吉兆ですから(折口信夫)。

 この祝言の心ゆえ、おおくの勅撰和歌集が、開巻第1の歌で
 春の雪をあつかっているわけです(丸谷才一「新々百人一首」)。

 三島由紀夫にも小説「春の雪」(「豊饒の海」第1)があり
 2005年に妻夫木聡くんと竹内結子さんで映画化されています。
 この機会にどうぞ。

 新成人のみなさんの前途にも妻夫木くんと竹内さんたちのように
 いろいろな困難がまちうけていると思います
 そんな春の雪が豊作(豊饒の海)をもたらすことを願ってやみません。
 

2011年1月4日火曜日

 明けましておめでとうございます



 みなさま 新年明けましておめでとうございます
 
 ちくし法律事務所は、今年も、国民的・全国的な課題に取り組みつつ
 筑紫地域に根ざし、社会と地域に貢献していきたいと考えています。

 このブログの新年の計としては
 あまり高望みせず、とりあえず3月末までは続けたい!? そして
 すこし笑えて、すこしタメになって、すこし励まされるようなものを
 書ければいいなーと思っています。

 「直子への手紙の中で僕は素敵なことや気持の良いことや美しいもののこと
 しか書かなかった。草の香り、心地の良い春の風、月の光、観た映画
 好きな唄、感銘を受けた本、そんなものについて書いた。」

                (「ノルウェイの森」の僕の手紙から)

 これにあと山の便り、地域の話題などというふうな感じで。

 法律事務所のブログなので、悲しいことや残念な話題も避けられないけれど
 できるだけ明るい話題を選んで書いていきたいと思います。
   
 ということで、本年もよろしくおつきあいいただきますよう
 お願い申し上げます。
 

2010年12月28日火曜日

 ラスト・メッセージ


 いよいよ「ノルウェイの森」最終回。

 というか、まだまだ書きたいことはあるんですが
 年内最後の更新なので結びとさせていただきます。

 これまで長々と書いてきたのも
 最後の謎を解くためのようなもの。

 突撃隊が緑に転生したという話が飲み込めた人は
 きょうの話も飲み込めんでいただけると思います。

 さて最後の謎は
 直子のラスト・メッセージはなにか?

 「ノルウェイの森」が俗世界で現実におこったことだけを
 書いているとすれば、あまり愉快な話ではありません。

 直子が僕になんのメッセージものこさずに
 自死してしまったことになるからです。
 
 このままでは愛とイマジネーションの欠如
 はたしてそうでしょうか?

 O Freunde, nicht diese Töne!
 もっとイメージ豊かな物語ではないでしょうか?

 突撃隊の死と再生を認める立場からすれば
 もちろん(「もちろん」は僕の口癖)
 直子もなんらかの再生を遂げているはず。
 
 この謎を解く第1のヒントは、キズキが死んだのち僕が感じた言葉。

 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」

 これは、死者は生者の外側ではなく、その一部として存在している
 とも読めます。
 
 そうすると、直子はレイコさんの一部として存在していることになりえます。 

 第2のヒント(というより、第2以下は情況証拠という感じですが)は
 玲子=レイコさんという名前。

 「玲」は、玉の涼しげに鳴る音の形容。また、玉のように美しいさま
 これは、彼女が音楽に堪能で、美しいことを表わしています。

 直子のばあい、ナオコと表記されませんが
 玲子さんはレイコさんと表記されます。
 これはレイコ=霊子という意味でしょう。

 宝満山には玉依姫(タマヨリヒメ)がゐますところ
 玉依姫は、もともと霊が依る姫=巫女という意味
 レイコさんもこの意味で、霊依女=巫女でしょう。

 僕がキヅキやハツミさんと玉突きをするのも
 霊(タマ)ツキと関連があるでしょうし
 緑が玉子と縁があるのも、霊子(タマゴ)ということかも。

 レイコさんが巫女だとすると、直子は死んだあとでも
 レイコさんをヨリシロにして語ることができます。
 (依り代・ヨリシロとは、神霊が依り憑く対象物のこと)

 ちょうど芥川龍之介の「藪の中」の
 「巫女の口を借りたる死霊の物語」のように。

 すでに直子の死のまえ(10章)から、レイコさんは
 直子に代わって手紙を書き、僕にメッセージを届けてはじめています。

 第3のヒントは、直子とレイコの交換可能性。

 直子の生前、こんなやりとりがあります。

 「夜中にレイプしにくるのはいいけど相手まちがえないでね」
 とレイコさんが言った。
 「左側のベッドで寝てるしわのない体が直子のだから」
 「嘘よ。私右側だわ」と直子が言った。

 単なる軽口かもしれませんが
 二人の交換可能性を示唆したものとも読めます。

 第4の証拠は、レイコさんと二人で一緒に暮らしたいという直子の希望。

 (レイコ)
 「彼女こんなことも言ったわ。二人でここを出られて
 一緒に暮すことができたらいいでしょうねって」
 (僕)
 「レイコさんと二人でですか?」
 (レイコ)
 「そうよ。」

 第5の証拠は、直子が生前、レイコと一緒に半分ずつ編んだ
 葡萄色のセーターを僕にプレゼントしていること。

 第6の証拠は、レイコさんが直子の服を着ていること。

 直子は「洋服は全部レイコさんにあげて下さい」という
 謎の遺書を残します。

 「変な子ね。自分がこれから死のうと思っているときに
 どうして洋服のことなんか考えるのかしらね。」
 とレイコさんがいうとおり、変な遺書です。

 レイコさんは直子の服を着て僕に会いにきます。
 「これ直子のなのよ」
 「…だから私たちいつも洋服とりかえっこしてたのよ。
 というか殆ど二人で共有していたようなものね」

 「…レイコさんが直子の服を着てくれていることは
 僕としてはとても嬉しいですね」という感じ。

 他人の服を着てその人になるという方法による変身は
 僕が緑の亡父のパジャマを借りたときにも起きています(9章)。

 第7の証拠は、レイコの若返り。

 ギターを弾いているときのレイコさんは、まるで気に入ったドレスを
 眺めている十七か十八の女の子みたいに見えた。

 第8の証拠は、残存記憶に従う行動という表現。

 「私はもう終わってしまった人間なのよ。
 あなたの目の前にいるのはかつての私自身の残存記憶にすぎないのよ。
 …私はただその記憶に従って行動しているにすぎないのよ」

 「私があそこを出られたのは私の力のせいじゃないわよ」
 「私があそこを出られたのは、直子とあなたのおかげなのよ。…」

 第9の証拠は、直子の生前の予言的なメッセージ
 直子は生前、不思議なメッセージを語っています。

 「これまでのものは全部処分して、これから新しく生まれ変わるの」

 これは死んで再生するとの予言でしょう。

 「あの人のことは私きちんとするから」

 僕のことをきちんとするというのは
 ラスト・メッセージを伝えるということでしょう。
 
 第10の証拠は、まるで直子が述べているかのようなつぎのセリフ。

 「私はあなたにそれを言うために寮を出てわざわざここまで来たのよ。
 はるばるあんな棺桶みたいな電車に乗って」

 これらの証拠からして、直子は死後、レイコさんを依り代として再生し
 僕に対して語りかけていると考えられます。 

 (レイコ=直子)
 「もうこれできちんとしたんじゃないかしら」
 (僕)
 「直子が死んじゃったから物事は落ち着くべきところにおちついちゃった
 ってこと?」

 これがエウリピデス型解決なのかソフォクレス型解決なのかを問う
 重要な問いであることは前に書いたとおりです。
 (「運命に立ち向かう」参照)

 (レイコ=直子)
 「そうじゃないわよ。
 …あなたは緑さんを選び、直子は死ぬことを選んだのよ。
 あなたはもう大人なんだから、自分の選んだものにはきちんと
 責任を持たなくちゃ。…」

 ソフォクレス型解決、すなわち神の采配ではなく
 人間による自己決定であることが、その答え。

 二十歳になった大人の僕に対する
 自己決定と自己責任の教えでもあります。

 (レイコ=直子)
 「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら
 あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じ続けなさい。

 そしてもし学べるものなら、そこから何かを学びなさい。
 でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。

 …だから辛いだろうけれど強くなりなさい。
 もっと成長して大人になりなさい。」

 これが直子のラスト・メッセージ
 死んでのちも、大きな愛で包み込むメッセージです。

 「幸せになりなさい」
 と別れ際にレイコさんは僕に言った。
 
 「私、あなたに忠告できることは全部忠告しちゃったから
 これ以上もう何も言えないのよ。幸せになりなさいとしか。
 私のぶんと直子のぶんをあわせたくらい幸せになりなさい、としかね」
 
 我々は握手をして別れます。

 ここはレイコさんのギター伴奏で
 山口百恵さんに「さようならの向こう側」を歌ってほしいところ。

 これら直子のラスト・メッセージにより、僕は救われます。
 そのことは冒頭とラストの暗と明のコントラストに表現されています。
 
 (冒頭)
 十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め
 …フランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。

 (ラスト)
 まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているような
 そんな沈黙がつづいた。

 ラストのほうはいかにも救済的な情景です
 映画「ショーシャンクの空に」の脱走成就シーンのよう。

 そしてノーホエア・マンの僕は
 「どこでもない場所のまん中から、緑を呼びつづけていた」。
 (「世界の中心で、愛を叫ぶ」みたいですが、逆です)

 どこでもない場所は、僕が二十歳のときの東京とも読めますが
 少なくとも三十七歳のときのハンブルクとも読むべきでしょう。

 「ノルウェイの森」が永遠に回帰する物語だとすれば
 時空を超えて、緑を呼びつづけるほかありません。
 

2010年12月26日日曜日

 わたし巡りの旅

 

 
 僕が渡し人であることから
 「ノルウェイの森」は、渡しをめぐる旅物語
 にもなっています。

 いわばヒーリング・パワースポットめぐりの旅
 いざ、ご招待。

 渡しは、境界、海峡、水際、水の上、水の中、流れの中
 時・季節、朝夕、赤・緑の色、明暗、光と闇、狂気、生死などにも
 境はあり、渡しがあります。

 誕生日、卒業、就職祝いなどの通過儀礼も
 通路のひとつです。

 舟、電車などの乗り物や、橋などの通路も渡しを行き来するうえで必要
 地図、旅、海賊、鳥、「かもめ」・猫、昆虫などのほか
 ぬかるみ、流れ、変化、腐るなども渡しの縁語でしょう。

 そうだとすると、飛行機のスチュワーデス、外交官、旅行代理店の女性
 などはみな渡し人であるワタナベの一族であるはずです。

 彼岸が異界のほか、深層心理や精神世界を含むことから
 本・書店、音楽・楽器、火・マッチ・煙草、酒、手紙、人間の体のほか
 私(わたし)自身も乗り物や通路になります。

 読みは黄泉に通じるとか。

 森は異界のメタファー
 木樵女である緑の木を切る技はこの意味の森をなくす行為でしょう。

 異界を行き来するとは、死と再生を繰り返すこと
 セックスもこの意味で、異界を行き来する行為です。

 「…するとね、体中がひやっと冷たくなったの。
 まるで氷水につけられたみたいに。…私このまま死んじゃうのかしら…

 …するとね、だんだん体にあたたかみが戻ってきたの。…」(11章)

 直子と縁の深いワインは死の縁語
 緑と縁の深い卵、春などは再生の縁語。

 ドイツは、ただハンブルグがあるところかもしれませんが
 ハツミさんが自死したときに長沢さんがドイツにいたことから
 やはり意味はあり、東西の境、あるいは森の縁語ということでしょうか?

 ハンブルクは、エルベ川の支流・アルスター川の河口にある港湾都市
 数多くの運河がながれており

 町の景観の特色のひとつが運河にかかる橋で
 アムステルダムとヴェネツィアをあわせたよりも多くの橋が。

 主人公がハンブルグで造船技術を学び、就職が決まっていたところ
 「魔の山」に上ることになったこととの関連は見のがせません。

 ボーイング747、ぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下、ハンブルグ空港
 整備工、BMW、自動車などは縁語。

 野井戸、ビリヤード台なども、落ち込む方法による渡し
 キズキは自動車のなかで自死しています。

 寮の僕の部屋が死体安置所のようであったこと
 突撃隊が地図づくりを志望していることは先に紹介しました。

 長沢さんが志望している外交官も外国との渡しにかかわる仕事
 彼とは対岸の彼女に想いをよせるギャツビー好きという共通点が。 

 僕が直子とはじめて歩き・緑の高校のあった四谷も
 緑の父が入院していたお茶の水も神田川を渡る橋があります。

 小林書店のある大塚はちょっと違いますが
 僕は水仙をもっていき「大塚駅の前の水辺でつんできたんだ」と言い
 水にまつわる贈り物をし、冗談を言っています。 

 京都の外れは古来、異界との境であるほか
 「阿美寮」のあたりに修験の霊山があることは前に書きました。

 父が死んだのち、緑は奈良と青森へ
 奈良については別の機会に述べました。青森についてはのちに。
  
 吉祥寺は古くから安養寺・光専寺・蓮乗寺・月窓寺という4軒の寺が集まる
 寺町であることによるものでしょうか。

 直子が死んだのち、僕は山陰の海岸、鳥取か兵庫の北海岸を西へ西へと
 旅します。

 これは、黄泉の国が島根県~鳥取県あたりにあるとされていることと
 関連しているのでしょうか。

 物語の最後に、レイコさんは旭川へ行きます
 なぜ、旭川に行ったのでしょうか?
 これは難問です。
 
 レイコさんは旭川について
 「作り損ねた落とし穴みたいなところ」と評しています。

 旭川の人たちはひどい侮辱だと憤慨しているでしょうが
 レイコさんが結局、落とし穴に落ちなくて済んだことを
 言っていることは間違いないでしょう。

 それにしてもなぜ旭川?

 第1に、旭ののぼる川=渡しということで
 文字が明日の希望を表現しているのかも。
 
 第2に、地形的なもの。
 旭川は、北海道のほぼ中央の上川盆地の中心部に位置し
 石狩川、忠別川、美瑛川、牛朱別川など大小130の河川が流れ
 740あまりの橋が架かっているそうです。

 この地形は、冒頭のハンブルグとよく似ています。

 第3は、村上さんが好きだから。

 「羊をめぐる冒険」でも
 「我々は旭川で列車を乗り継ぎ、北に向って塩狩峠を越えた。」
 とあります。

 第4は、旭川出身の三浦綾子さんとの関連。

 三浦さんは、「塩狩峠」や「氷点」を書いています。
 峠は山の上と下の境ですし、氷点は水と氷の境です。
 
 最後の難問
 死期の近い緑の父は僕に対し「切符・緑・頼む・上野駅」と言います。
 これって暗号みたいですが、どういう意味でしょう?
 
 可能性は3つ
 緑の福島行き、青森行きとレイコさんの青森経由・旭川行きです。
 
 緑は子どものころ家出をして福島の伯母のところへ2回行っていますが
 これが父の伝言と関連するとすれば、エレクトラ・コンプレックスの謎とき
 との関連でしょう。が、よくわかりません。

 父が死んだのち、緑は青森の下北半島、竜飛岬などを旅しています
 これは恐山という、日本最強の異界への渡しと関連しているでしょう。

 この旅ののち、緑は元カレをふって僕を選択することに
 この意味で、父の伝言ともっともマッチします。

 直子が死んだのち、レイコさんはあえて青函連絡船に乗って
 旭川に向かいます。

 「僕は飛行機で行った方が速いし楽ですよと勧めたのだが
 レイコさんは汽車で行くと主張した。

 『私、青函連絡船って好きなのよ。空なんか飛びたくないわよ』
 と彼女は行った。それで僕は彼女を上野駅まで送った。」

 これが父の伝言とどう関係するかは、長くなりそうなので
 別の機会に。

 以上、日本全国ヒーリング・パワースポット巡り
 すこしは癒されましたでしょうか?
 

 異界と往来する者たち


 「ノルウェイの森」の「僕」は「ワタナベトオル」くんなのですが
 なぜ、「ワタナベ」くんなのでしょう?

 渡辺氏の祖は、渡辺綱
 大江山で鬼を退治した源頼光四天王の一人として有名です。
 (足柄山の金太郎こと坂田金時もそう)

 渡辺の地は、淀川の下流難波江の渡し口、かつて
 対岸へ渡る渡船口で渡しの舟守り「渡部」が居住していました。

 渡部は、船で人を運ぶ仕事に従事した人々で
 その起源は古代に遡ります。

 こうして、ワタナベは、対岸と往き来する人
 転じて、彼岸(異界)と行き来する人
 あるいは、死者と交流する人
 死と再生に関与する人という意味に。

 異界には、本の世界はもちろん
 過去、無意識、精神世界なども含みます。

 彼は、歩いて旅行すること、泳ぐこと、本を読むことが好きで 
 運送屋のアルバイトなどをしているとされています。

 キズキの死によってアドレセンスとでも呼ぶべき機能の一部が
 永遠に損なわれ、僕はたえず彷徨うことになりました。
 (地理的にも、精神的にも)
 
 そこは教養小説ですので、僕の損なわれた機能を補おう
 とする人物があらわれます
 まずは、寮で僕と同室だった「突撃隊」。

 突撃隊は病的なまでに清潔好きで
 僕の部屋は死体安置所のように清潔
 死体安置所は彼岸へ渡るところなので、ワタナベと関連します。

 僕が貼ったヌード写真がはがされ
 「アムステルダムの運河」の写真が貼られます。のちに
 誰かがいたずらに「ゴールデン・ゲート・ブリッジ」の写真に
 貼り替えます。
 
 運河、ブリッジも「ワタナベ」と関連するアイテム
 最後は「氷山」の写真にとりかえられますが、その意味は後に。

 突撃隊はある国立大学で地理学を専攻し
 地図の勉強をしています。

 問題は、「地図」という言葉を口にするたびに
 彼がどもってしまうことです。
 彼のアドレセンス機能も損なわれているようです。

 直子がいなくなった後、彼は僕に蛍をくれます(3章末)。
 蛍は水門のある小さな流れを魂のように行き来する存在
 ここはとても印象的な彼岸往来のメタファーとなています。

 その夏休み明けの9月
 突撃隊自身も寮から、いなくなってしまいます(4章)。

 いなくなった経緯はあきらかにされませんが
 やはり自死(海で)したように読めます。

 これまた突飛かもしれませんが
 彼は緑として生まれ変わったのではないでしょうか。
 そのわけはこうです。

 突撃隊がいなくなったのと入れ替わりに緑が登場します(4章)。
 緑は初対面のときに、こんな変なことを言っています。

 「そう。夏にパーマをかけたのよ。ところがぞっとするような
 ひどい代物でね、これが。一度は真剣に死のうと思ったくらいよ。
 本当にひどかったのよ。ワカメが頭にからみついて水死体みたいに
 見えるの。でもやけっぱちで坊主頭にしちゃったの。…」

 突撃隊の頭は丸刈りでしたから
 彼が水死体となり、緑に生まれ変ったと
 説明しているように読めます。

 こう読むと、寮の部屋の写真が「氷山」にかえられたことの意味も
 明らか。氷山は死を意味しています。

 緑のアルバイトは、地図の解説を書くこと
 緑にとっては本当に簡単、アッという間。

 こうして僕の損なわれたアドレセンス機能は
 緑によってサポートされていくことになります。

 ただ地図は、文章とともに記憶、想い盛る容器とされ
 あまり克明なものは役にたたないとされています(1章)。

 僕が「阿美寮」に行く際、直子が手紙に同封した地図と
 京都の書店で買った地図の2種類が出てきますが
 「魔の山」へ行く用の地図は前者という意味でしょうか。

 緑=突撃隊という説は、両者の性格の違いという難点が
 あります。

 緑が自由人であるのに対し、突撃隊はナチだとか
 突撃隊だとか呼ばれる、いささか偏狭な性格です。

 突撃隊の偏狭な部分は緑の元カレが引き継いでいるのでは
 ないでしょうか。緑の元カレは、緑の自由な振る舞いを認めず
 なにかと彼女を拘束しようとしているので。

 突撃隊=緑だとすると、彼が熱発して、僕と直子が
 ブラームスの4番シンフォニーのコンサートに行くのを
 邪魔したことの説明もつくのですが、これは無理筋かも。

 僕は突撃隊がなくなった夏休みの間
 金沢から能登半島をぐるっと旅行してまわっています。

 金沢のあたりは松本清張「ゼロの焦点」の舞台
 東尋坊、能登金剛・ヤセの断崖などは投身自殺が多いところ。

 僕は無意識ながら、突撃隊を探しに出かけたのかも 
 あまりに突飛でしょうか?

 緑は父親が亡くなったのち、奈良と青森に旅行に行っています
 青森のほうは後で説明するとして、ここで問題は奈良。

 緑は奈良で鹿と散歩したりしています
 奈良の鹿は春日大社の神の使いなので
 鹿をつうじて亡父と交信したのでしょうか?

 この鹿はただの鹿ではないかもしれません
 というのも突撃隊はいなくなる前、2枚目のセーターを買い
 それがなんと、鹿の編みこみが入ったものだったからです。

 突撃隊は死んで神の使いである鹿になったのかもしれません
 こちらの説もなかなか魅力的です。

 雨の屋上で僕は緑を抱き、びしょ濡れになります
 そのときの緑の台詞はまさしく異界から生還した喜びに充ちています。
 (また、異界への往還と性交渉の類似性がほのめかされています)

 「ねぇ、私たちなんだか川を泳いで渡ってきたみたいよ」
 と緑が笑いながら言った。
 「ああ気持ち良かった」
 

 メメント・森


 「ノルウェイの森」を読んでいてまずひっかかるのは
 直子は僕を愛していないのか?
 愛していないのに、なぜ、僕と寝たのか?
 ということでしょう。

 このことについて、僕と直子は「阿美寮」で
 つぎのような不思議なやりとりをしています(6章)。

 「でも僕は…本当に心からそう思うんだよ。自分が普通の人間だって。
 君は僕の中に何か普通じゃないものがみつけられるのかい?」

 「あたりまえでしょう」と直子はあきれたように言った。
 「あなたそんなこともわからないの?そうじゃなければどうして
 私があなたと寝たのよ?…」

 これからすると、直子が僕と寝た理由は
 「僕の中に何か普通じゃないものがみつけれられる」から。

 じゃ、この「僕の中の何か普通じゃないもの」ってなんでしょう?
 キズキが死んだあと、僕の中に
 「何かぼんやりとした空気のかたまりのようなもの」が残った
 とされています(2章)。

 そのかたちを言葉におきかえると
 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」

 そうだとすると、直子は僕の中に「死」、あるいは、「キズキ」
 をみつけたがゆえに、僕と寝たといっているわけです。

 そういえば、時々直子はとくにこれといった理由もなく
 何かを探し求めるように僕の目の中をじっとのぞきこんでいました。
 (3章)  
 
 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」
 というのはゴシック文字になっているので、大事なことのはず。

 これからまず思い浮かべるのはメメント・モリですね。

 メメント・モリ(Memento mori)は、
 「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」とか
 「死を記憶せよ」とかいう意味の警句。

 芸術作品のモチーフとして広く使われ、文学上でも重要なテーマ
 「ノルウェイの森」においても重要なテーマなんですね。
 

 森の謎の犯人はうなぎだった!? 


 
 村上春樹ワールドの
 タイやヒラメの見事な舞い踊りに見惚れているうちに
 いつのまにやら日が経ちました。

 そろそろ森を脱出して、現実の世界に戻らねば
 と思うきょうこのごろです。

 村上さんの作品を読んだことのない人や
 あまり好きではないという人には
 申し訳なく思いつつも
 長々と書いてしまいました。

 ま、それほどにおもしろい世界であるということでして。
 騙されたと思って一度読んでみてください。

 それでも「ノルウェイの森」を読んだけど
 さっぱり分からなかっただとか
 あんまり癒されなかっただとか
 そういうことはあると思います。

 「まず最初にあなたに理解してほしいのはここが
 いわゆる一般的な『病院』じゃないってことなの。

 てっとりばやく言えば、ここは治療するところではなく
 療養するところなの。…

 人々は自発的にここに入って自発的にここから出ていくの。
 そしてここに入ることができるのはそういう療法に向いた人達だけなの。

 誰でも入れるというんじゃなくて専門的な治療を必要とする人は
 そのケースに応じて専門的な病院に行くことになるの。

 そこまではわかる?」
 (「阿美寮」についてのレイコさんの説明)

 というわけでして
 村上ワールド療養に向かない人達には、ごめんなさい。

 村上さんの世界にこうも馴染むようになったのは
 わけがあります。 

 薬害肝炎の被害立証がはじまろうとしていたころ
 若手弁護士たちは大きな壁にぶつかっていました。

 それまで薬害責任論を長い時間かけてやってきたせいで
 行政的・科学的な議論に頭が凝り固まっていて
 イマジネーションが枯渇していました。

 O Freunde, nicht diese Töne!
 という感じ。

 そんなとき久保井弁護士からまことに適切なアドバイスが
 投げかけられました。

 久保井さんは、あの困難なハンセン病訴訟における
 被害立証の責任者でした。

 ハンセン病被害は、90年間におよぶ多様な被害が幾重にも
 積み重なっていましたから、その立証は困難を極めました。

 それを見事にやり遂げたのですから
 集団訴訟における被害立証の第一人者なわけです。

 久保井さんはハンセン病訴訟の被害立証に携わり、ある時点から
 「この尋問で原告が語っていることは、まさに原告が語りたかったこと
 であり、かつ、被害の本質である」という確信を抱いたといいます。

 そのような立証ができたのは、振り返れば
 そこに「うなぎ」がいたからだ、というのです。

 「うなぎ」とはなにか?
 村上さんは柴田元幸さんとの対談でつぎのように語っています。
 (「柴田元幸と9人の作家達」2004年)

 「僕はいつも、小説というのは三者協議じゃなくちゃいけない
 と言うんですよ」
 「三者協議?」

 「三者協議。僕は『うなぎ説』というのを持っているんです。
 僕という書き手がいて、読者がいますよね。

 でもその二人だけじゃ、小説というのは成立しないんですよ。
 そこにうなぎが必要なんですよ。うなぎなるもの」

 「…読者と作家とのあいだだけで。ある場合には批評家も入るかもしれない
 けど、やりとりが行われていて、それで煮詰まっちゃうんですよね。
 そうすると『お文学』になっちゃう。

 でも、三人いると、二人でわからなければ
 『じゃ、ちょっとうなぎに訊いてみようか』ということになります。

 するとうなぎが答えてくれるんだけど
 おかげで謎がよけいに深まったりする。
 そういう感じで小説書かないと、書いてておもしろくないですよ」

 こうして久保井さん=村上さん=うなぎクンのアドバイスのもと
 弁護団の若手のあいだにも自由な地平が新たに開け
 なんとか被害立証を遂げることができました。

 傍聴席で聴いていて、意味のわからない
 謎の質問はうなぎクンのせいなわけです。

 というわけで、村上さんには恩義を感じているわけです。

 それを別にしても「ノルウェイの森」にも
 うなぎが投げかけたと思われる謎がいっぱい。

 これがもうめっぽうおもしろい
 答えをつかまえたと思ったら、するりと抜けてしまいます。 

 私自身も弁護士になったころからしばらく
 フィクションを受け付けない時期がありました。

 40代前半に例の「読書の師匠」(11月「静子の日常」参照)に巡りあい
 その薦めで読んだ小説がどれもおもしろく感じ
 それからまた小説を読むようになりました。

 長い人生ですからその時々の情況・気分におうじて
 自分に語りかけてくる時期、自分を癒してくれる時期など
 あると思います。

 いまはどうもという人も、しばらくすれば
 うなぎクンが成長して
 語りかけ、癒してくれるのでは?
 

2010年12月25日土曜日

 永遠に回帰する物語



 「ノルウェイの森」の僕はレコード店でアルバイトをしています
 これはなにかを暗示しているのでしょうか?

 いまのCD以後の媒体だと理解しずらいのですが
 むかしのレコードはぐるぐると回転していました。

 レコードというはぐるぐると回転するというメタファー
 「ノルウェイの森」はぐるぐると回転する物語なのです。

 前に、「ノルウェイの森」を追いかけれど追いつかないだと書きましたが
 それはつまり、いつまでもぐるぐると回転する物語でもあります。

 そう思って読むと、直子はこんなことを言ってます(2章)。

 「…まるで自分の身体がふたつに分かれていてね、追いかけっこを
 してるみたいな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね
 そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。
 …」

 僕もこんなことを言ってます(2章)。

 「僕はそんな息苦しい背反性の中で、限りのない堂々めぐりを
 つづけていた。それは今にして思えば奇妙な日々だった。
 生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。」

 僕は気に入った本を何度も読み返すのが好き(3章)
 村上さんの小説も何度も読み返すうちに、いろいろな発見に出会えます。

 直子の誕生日の日の、つながり方が奇妙な話
 A>B>C>…というのもレコード盤のような構造を示しています。
 (3章)

 直子が死んだあと、レイコさんと僕は「淋しくない」葬式をやり
 二人で51曲も歌います。
 すべての曲に意味があるのですが、それはまたの機会に。

 20曲目は、「ウェディングベル・ブルーズ」
 その歌詞につぎのような一節があります。

  私が死ねば、またどこかで命が生まれる
  人生はそういうもの
  そうして世界は巡っていくものなのよ

 これは、仏教でいえば輪廻転生の教え
 いまはやりのニーチェでいえば
 「ツァラトゥストラはかく語りき」の永劫回帰の思想。
 (ここのBGMはリヒャルト・シュトラウスの交響詩でしょう)

 ニーチェには「(ギリシャ)悲劇の誕生」という著書もあるので
 ギリシャ悲劇をベースにした「ノルウェイの森」の思想的基盤
 としてもピッタリ。

 「ノルウェイの森」は季節の循環をいろいろと示唆しています
 カレンダーは重要なアイテムですし
 「季節がひとまわりしたのだ」などという表現も出てきます。

 季節が循環し、死と再生を繰り返すわけです。

 これらのイメージを図式化すれば、まさしくレコードの回転
 ということになります。

 アドレッセンス機能を失った主人公たちがどこへも行けず
 おなじところをぐるぐると彷徨うイメージにぴったり。

 この物語にはもっと大きな回転も用意されているように読めます。

 僕は最初の一行の重要性をつぎのように強調してしています(1章末)。
 どうしてでしょう?

 「もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ
 僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。
 でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。

 その最初の一行さえ出てくれば、あとは何もかもすらすらと書いて
 しまえるだろうということはよくわかっていたのだ…」

 それで最初の一行を見てみると、こうなっています。

 「僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。」

 なぜ、「僕は三十七歳で…」という最初の一行が重要なのでしょうか?

 僕と直子の一回きりのセックスによって子どもができ、その子が
 (僕のなかで)成長して、18歳の僕になるからではないでしょうか。

 18歳となった僕はふたたび
 「ノルウェイの森」の物語をはじめることになります。

 こう考えると、「ノルウェイの森」は永遠に回帰する物語になります
 こうして、僕はつぶやかざるをえません。

 「やれやれ、またドイツか」

 ただし、ただ単に永劫回帰しているだけでは
 「シジフォスの神話」であり、諸行無常の響きありになってしまいます。

 どうすれば、この袋小路から脱出することができるのでしょうか?
 鍵は緑が握っています(10章)。

 「どのくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。

 「世界中のジャングルの虎が溶けてバターになってしまうくらい好きだ」
 と僕は言った。

 おなじみ「○○○○サンボ」のなかのエピソード
 虎たちは木のまわりをぐるぐると回転しながら最後は溶けてバターに。

 さてその方法は?
 緑が永遠の回転から脱出する方法は木登りです。
 
 「○○○○サンボ」は虎たちの回転を木のうえから眺めています。

 緑は女木樵であり、木登りが得意
 なにかと木(上)に登ろうとします。

 小林書店の近くで火事が起こったとき、3階の物干しに上り
 僕とキスをしました。

 後半、僕と仲直りしたときも、百貨店の屋上に上り
 やはり僕とキスをしました。 

 かくて物語は四季のように回転しながらも、僕は緑と木に登る
 (愛の成就)という形で、その都度、春のように再生しているわけです。
 

2010年12月24日金曜日

 「魔の山」に上る


 「ノルウェイの森」も、修験道とおなじ
 霊山に分け入り悟りを得る話だといえば
 「またまた自分の趣味にひきつけて~」といわれそうですが
 いや、ほんとです。

 「ノルウェイの森」の中央にも「魔の山」がそびえ
 僕はそこに上って下りてきます。
 (「登る」ではなく「上る」という表記は、作中で
 「登山ルートを上りはじめた。」とあることによります)

 小説は全部で11章からなり
 その真中の6章が「魔の山」、物語のピークになっています。

 (10章でも「阿美寮」へ行っていますが、6章とちがい
 「魔の山」に上ったようには書かれていません)

 「魔の山」に上ることは物語の早い段階から予定されています。

 直子は僕に(「阿美寮」の)共同生活ができるかどうか訊ね
 父親が山登りが好きだったせいで、小さい頃から日曜日になると
 山登りしてたのと言っています(2章)。

 例によって、僕がトーマス・マンの「魔の山」を読むことで
 「阿美寮」=「魔の山」であることが示されています(4~6章)。

 「魔の山」は、主人公のハンス・カストルプ青年が
 危機的な状況にある外界(第一次世界大戦前のヨーロッパ)から
 アルプス山中にある結核療養所に7年間入所し
 様々な人物との出会いや語りから学び成長していく話です。

 「魔の山」が、結核を患った主人公の成長を促すのは、そこで
 様々な人物が深い話を主人公に語りかけるからです。
             
 「阿美寮」で語られる、レイコさんと直子の話は圧巻
 本作のクライマックスで、読みながら背筋がゾクゾクします。
 
 このような主人公の心理的・精神的成長を描くものは
 ビルドゥングスロマン(教養小説)。

 ドイツ人が大好きなジャンルで
 小林書店で僕が読んだヘッセの「車輪の下」もそう。

 「ノルウェイの森」は、「魔の山」の章にとどまらず
 全体が教養小説的です。

 僕が袋小路に入り込むと必ず誰かがちゃんとリードしてくれ
 「突撃隊」でさえ僕をカオスから救い出す役割をしています。

 「魔の山」が、主人公の成長を促すのは
 異界に異化されることにもよります。
 (異化されるばあい、下手をすると生きて帰れませんが)

 雑木林を抜け「阿美寮」に入ると、彼岸(異界)に入り込んだよう
 に表現されています。
 (直子は「彼岸の彼女」なわけ
 「グレート・ギャツビー」の求めるデイジーも「対岸の彼女」です) 

 「阿美寮」から戻った僕は、緑から
 「幽霊でも見てきたような顔しているわよ」と言われています。

 直子が裸になった場面は、とても神話的
 「蝶」のように変身し、大人になったことが
 象徴的に表現されています。

 この場面は、スタインベック「怒りの葡萄」のラストを
 ほうふつとさせる印象的なシーンです。

 なお、このとき、僕は唾をのみこみ、夜の静寂の中で
 その音はひどく大きく響いてしまいます。

 のちに(7章)、緑は僕にこんなことを言ってます。

 「あのね、セックス・シーンになるとね、まわりの人がみんな
 ゴクンって唾を呑みこむ音が聞こえるの」
 「そのゴクンっていう音が大好きなの、私。
 とても可愛いくって」

 緑は勘が鋭い女性ですが
 ここまで見抜かれると、浮気はできません。

 愛する女性を求めて異界へ往って還る話は
 日本神話のなかにもあり、イザナギは
 出産時に亡くなった妻イザナミに会いに黄泉国へおもむきます。

 決して覗いてはいけないという約束を破って見てしまったのは
 腐敗してウジにたかられ、雷に囲まれた妻の姿
 これに驚き、逃げ出してしまいます。

 黄泉国と地上との境である黄泉比良坂を塞いだ大岩を挟んで
 イザナミが「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」というと
 イザナギは「それならば私は、1日1500の産屋を建てよう」。

 この神話も、人はなぜ生き、死ぬのかという問いに対する
 古代人なりの答え
 夫の裏切りが原因だというのもまぁ今日でさえあります。

 異界へ往って成長して還ってくる話といえば
 新しいところでは、宮崎アニメ「千と千尋の神隠し」でしょうか
 「トンネルのむこうは、不思議の町でした」ですから。

 さて、もうひとつ大きな異界へ往って成長して還ってくる話は
 「ノルウェイの森」の外枠の話がそうです。

 ボーイング747の機中にいた37歳になった僕は
 「ノルウェイの森」のBGMを聴いたことをきっかけに
 過去、あるいは自己の記憶・深層心理の世界へトリップします。

 直前、スチュワーデスが声をかけます。
 I hope you'll have a nice trip.

 僕のこたえは
 Auf Widersehen!(再会しましょう!)

 スチュワーデスへの挨拶であるとともに
 直子たちへ呼びかけたものでもありましょう(呪術的に)。

 僕はこのトリップにより
 癒され、自己を快復して戻ってこれるでしょうか?

 さらに外側にはわれわれ自身の物語があります。
 日常生活に疲れ傷ついたわれわれの心の。

 「ノルウェイの森」を読み、僕といっしょにトリップすることで
 そうした心のささくれがきっと癒されることでしょう。
 

2010年12月23日木曜日

 修験の山~宝満の祈り~


               (役の行者/愛嶽神社)
 役の行者(役小角)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者
 修験道の開祖とされています。

 「南総里見八犬伝」にも登場
 時代がかなりちがうのですが、そこは呪術で「えい、やっ」と。

 修験道は、霊山に分け入り厳しい修行を行い
 超自然的な能力・悟りを得ようとします。

 行者ならずとも、山に登れば誰しも
 山の雄大さや厳しい自然に圧倒され、恐れ敬う感情が生じます。

 宝満山はかつて修験道の霊場として栄えましたが
 現在は遺跡が残るのみ。
 (ときに、行者さんと出会うことはあります)

 「ノルウェイの森」の「阿美寮」があるとされる場所にも
 大悲山・峰定寺という修験の山があるようです。
 

2010年12月22日水曜日

 苦悩を越えて 


 きょうは冬至
 いつの間にか、年の瀬、「第9」の季節となっています。
 みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 エウリピデスよりソフォクレスの好きな「僕」は
 オイディプス王であろうと、まえに書きました。
 (「運命に立ち向かう」参照)

 オイディプス王の神話は概略つぎのような話です。

 オイディプスは、知らずにテバイ王である父を殺してしまう。その後
 スフィンクスを退治した功によってテバイの王座と王妃を手に入れる。
 しかし、やがて彼が殺したのは父、妻としているのは母であることが
 明らかになり、母は縊死し
 オイディプスも自らの両眼をえぐり出して放浪の途につく。

 僕がオイディプス王だとすると、問題はその両親ですが
 キズキと直子が父と母ではないでしょうか。
 (もちろん、象徴的な意味で)

 この読みは突飛なようですが
 おおくの情況証拠によって裏打ちすることができます。

 キズキが先に死ぬこと
 その後、僕が直子と交わるということ
 キズキの死によって僕のアドレセンスとでも呼ぶべき機能の一部が
 永遠に損なわれたこと
 これにより、たえず彷徨うことになったこと
 僕が二十歳(大人)になり、緑と愛しあうようになったこと
 その後、直子が縊死したこと
 などがそうです。

 また傍証として、どうして泣いているのかと訊いた漁師に
 「母が死んだからだと僕は殆ど反射的に嘘をついた」ことや

 レイコさんが大家さんに
 「あなたの母方の叔母で京都から来たってことにしとくから」
 といっていることなどが挙げられます。

 勘のするどい緑もこう推論しています。
 「私はワタナベ君のつきあっている相手は人妻だと思うの」

 こうして、象徴的な意味で少なくとも直子が僕の母であると
 読むことができそうです。

 そうだとすると、「ノルウェイの森」は
 母が大好きだった僕(エディプス・コンプレックスの)
 が成長して大人になり
 同じような困難(エレクトラ・コンプレックス)
 を抱えた緑と愛しあうようになる物語
 として読むことができそうです。

 民法の大家にその名も我妻栄という先生(故人)がおられました。
 我妻先生は結婚についてこう比喩されていました。

 結婚は、川に杭を2本打ち
 その間に網をはって魚を捕るようなものだ。
 杭の間隔が広ければ、不安定だが、おおくの魚が捕れる。
 狭ければ、安定するが、おおくの魚は捕れない。

 出自や性格がちがうものどうしのばあい、杭の間隔は広くなりますし
 似たものどうしのばあい、狭くなります。

 僕と緑のばあい、似たものどうしなので、わかりあえる点もおおい
 けれども、ふたり分の困難を抱えている分だけ
 そうとう困難な道のりが予想されます。
 でも、それを乗り越えてぜひとも幸せになってほしいと思います。
 (なんか、結婚式のスピーチみたいになりました)
 

2010年12月20日月曜日

 ノルウェイの森は謎がいっぱい



 刑事事件や民事事件においては
 証拠が断片的であったり
 証拠どうしが矛盾したりして
 わけがわからないということがよくあります。

 そのようなとき、「筋読み」という作業をします。
 真相・真実を推理するわけです。

 松本清張の小説に「点と線」がありますが
 点が証拠、線が筋になります。

 点は星のようにちらばっていますから
 星座のように、線の引き方は複数ありえます。
 
 だからこそ裁判が必要になりますし
 地裁と高裁、さらには最高裁の判断が分かれる
 ことにもなります。

 小説のばあい、象徴的な表現がなされているので
 より多様・自由な線の引き方(解釈)が可能でしょう。

 「ノルウェイの森」を読んでいると
 わけのわからないところがたくさんでてきます。

 いうなれば「ノルウェイの森」のなかは
 謎や不思議がいっぱいです。

 「あるいはそれは彼女の中にしか存在しないイメージなり
 記号であったのかもしれないーあの暗い日々に彼女がその頭
 の中で紡ぎだした他の数多くの事物と同じように。」

 というわけで、謎のイメージや不思議な記号もいっぱい。
 
 たとえば、父の死後、緑は仏壇の亡父の写真の前で裸になり
 亡父にじっくり見せてあげたとか。
 (原文は放送禁止用語がいっぱいで、ここに引用できません)

 この風変わりな行為は、このままでは何のことかわかりません
 どうして緑はこんなことをしているのでしょう?

 この謎は、緑がエレクトラであるとすれば
 (前に書いたように、初対面の場面を参照)
 つぎのように解釈することができそうです。

 エレクトラは、ミケーネの王アガメムノン
 (トロイア戦争におけるギリシャ側の総大将)
 とクリタイムネストラとの娘。

 トロイア戦争から帰国した父を、母とその情夫が暗殺したため
 エレクトラは弟とともに仇を討ちます。

 ここから、エレクトラコンプレックスは
 女子が父に対して強い独占欲的な愛情を抱き
 母に対して強い対抗意識を燃やす状態をいいます。
 (エディプスコンプレックスの女子バージョン)

 緑によれば、母は緑に対し「お前は私の子じゃないし
 お前のことなんか大嫌いだ」と言ったことになっています(7章)。

 緑がエレクトラであるとすると
 両親との間に上記のような葛藤があったことになり
 緑の風変わりな行為の動機を説明できることになります。

 ま、例によって、そうかもしれませんし、ちがうかもしれません。 
 例によって、どっちが物語として豊かか、自分にとって真実か
 自分の励みになるかなどが決め手になると思います。

 ギリシャ時代の悲劇が
 現代においてもわれわれの心をつかむとすれば
 何千年経とうとも人類の心性がそう変わらないものなんだなぁ
 というふうに思います。

 彼らがたしかな筋を読み
 普遍的な真相・真実をつかんでいたためでもありましょう。
   

 ギリシャ悲劇とローマ法



 村上春樹さんは「ノルウェイの森」で
 古典ギリシャ悲劇をベースとして物語を展開されています。

 ギリシア悲劇は、古代ギリシアで
 アテナイのディオニソス祭で上演されていました。

 「ノルウェイの森」の巻頭には
 「多くの祭り(フェト)のために」というエピグラフが
 置かれています。

 「多くの祭り」が何と何と何…を指しているのかは
 挑戦するにたる大変面白い設問ですが
 ディオニソス祭はその一つだと思います。

 ディオニソスは、ギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒と酩酊の神
 作中「僕」はしょっちゅう誰かとワインなどの酒を飲み
 誕生会や就職祝いなどをやっているのが、その理由です。

 ま、村上さんがそう考えていなかったとしても
 そう考えるほうが正解のように思います。

 そう考えるほうが
 「ノルウェイの森」がより大きなスケールをもち
 深みを増すからです。
 エピグラフというのはそういうものでしょう。 

 ディオニソス祭での上演は
 悲劇作家らが競作し
 聴衆の投票により優勝者を決めていました。

 一昨日、内ちゃん南ちゃんが
 「ザ・イロモネア 笑わせたら100万円」をやってましたが
 イメージとしては、あんな感じだったのでしょうか。
 (古典悲劇作家の先生がたにはやや失礼の段お許しください)

 考えてみれば、陪審や裁判員裁判も
 古典ギリシャ悲劇の上演と似ていないわけではないわけです。

 しかしながら、われわれが法律論を展開するのに
 依拠している法は古典ギリシャ法ではありません
 古典ローマ法に由来する民法です。

 以前にも書きましたが、民法をひとことでいうと
 「約束は守ろうよ」ということです。

 この「合意は守られるべし」 (pacta sunt servanda)
 というのはローマ法に由来する大原則です。

 古代ギリシャは哲学や悲劇が知られ
 古代ローマは法律や土木建築技術が知られています。
 
 古代ギリシャ人は右脳、古代ローマ人は左脳が発達していた
 などと言ってしまいそうですが
 ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」が論証したとおり
 環境のなせるわざだったのでしょう。

 ローマ法はローマ時代から一貫してヨーロッパの法であった
 ような誤解もしてしまいそうですが、ちがいます。

 それはギリシャ・ローマの他の多くの知的遺産と同じ
 いったん忘れさられたのちに復活したものです。

 (古代ギリシャ、ローマ人は
 いまのイタリア、ギリシャ人とはちがいます。

 プラトンやソクラテスの末裔がいまのギリシャの財政危機を
 まねているわけではありません)

 ローマ法も、東ローマ帝国、ローマ・カトリック教会
 中世の大学らの手(数奇な運命)を経て
 中世ヨーロッパ大陸法(普通法)として復活しました。

 (漢倭那國王が漢の皇帝から授与された金印が失われて
 江戸時代に再発見された感じに似ています)

 普通法は市民革命後も、ナポレオン法典、ドイツ民法典などとして
 リメイクされ、基本的に現在でも通用しています。

 日本の民法は、これらをほぼ直輸入したものです。
 龍馬らの不断の努力により鎖国政策が崩壊した後、諸外国から
 不平等条約の改正の条件として民法の制定を求められたからです。

 ここら辺の話はまだ語るべきことがあるのですが
 それは別の機会にゆずり
 とりあえず「ノルウェイの森」へと戻りましょう。