2011年4月14日木曜日

 しのぶ草


 しのぶ草。別名、ノキシノブとも。
 木や岩などに着生するシダの仲間

 葉裏のぽつぽつは胞子嚢
 観世音寺・参道のクスに生えています。

   ももしきや 古き軒端の しのぶにも

            なほあまりある 昔なりけり

                       順徳院

 小倉百人一首の最後の歌
 しのぶ草がよく似合います。

 百人一首は、天智天皇の若々しい歌ではじまり
 懐古的な本歌で終わり。

   秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ

            わが衣手は 露にぬれつつ

                      天智天皇

 天智天皇(中大兄皇子)は、中臣鎌足らと謀り
 蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こしました(645年)。

 その後、様々な改革(大化の改新)を行ない
 天皇中心の政治をつくりあげていきました。

 そのような「理想的な天皇」が
 農民の生活を慈悲深く歌った和歌が、百人一首の最初の歌です。
  
 なお、天智天皇は、百済をたすけるために
 母・斉明天皇とともに、筑紫の地に来ています。
 
 斉明天皇は、朝倉付近で亡くなりました。
 その冥福を祈るために、天智天皇が創建したのが観世音寺です。

 これに対し、順徳院(1197~1242)は、後鳥羽上皇の第三皇子
 承久の乱にやぶれて佐渡に流され、島で世を去りました。

 承久の乱は、鎌倉幕府の成立後、鳥羽上皇らが
 武家から政権を奪回しようとしておこした戦い(1221)。

 乱の結果、武家の優勢=公家の没落が決定的に
 かくて御所にも、しのぶ草が。

 こうして百人一首は、和歌のアンソロジーとしてだけでなく
 歴史書としても読めるわけです。

 百人一首がこのような構成になっているのも
 選者の定家が鎌倉時代初期という歴史の転換期に生きたから。

 定家がすぐれた歌人であったことは事実でしょうが
 歴史が定家をつくったことも否定できないところでしょう。

 順徳院は、定家の和歌の弟子でしたが
 承久の乱後は、政治的犯罪人。

 表向きは、その和歌をとりあげることができません。
 鎌倉幕府に叱られるので。

 百人一首は、公的な歌集ではなく
 私的なアンソロジーなので、順徳院を採ることができました。

 いまでいえば、小沢チルドレンが
 小沢さんを擁護する発言をするようなものでしょうか。

 当の小沢さんがいまも自由に発言できるのも
 武力ではなく言論で勝負する民主主義社会ならではです。
 

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