2024年1月16日火曜日

姨捨山(2)棚田・田ごとの月

(棚田越に善光寺平)


(棚田越に冠着山=姨捨山)
 

 姨捨が月の名所であるのには、千曲川と善光寺平を見わたす絶景を背景にすることのほか、もう一つわけがある。あたり一帯に棚田が広がっているのだ。

そのうち長楽寺の持田四十八枚田を「田ごとの月」と呼ぶ。十五夜の夜、棚田を歩きながら、満月が田ごとに映り込むさまを愛でるのである。全国で初めて棚田として国の名勝に指定された。

この地が月見の名所とされた歴史は古い。平安時代の初めにはそうだった。なぜなら、つぎの歌が『古今集』に掲載されているから。

 わが心慰めかねつさらしなや姨捨山に照る月を見て よみ人しらず

この歌は当時の人々のイメージを強く喚起したようで、大和物語や今昔物語集に、妻の悪口に乗せられ、老いた姨を山に捨てた夫の話が掲載されている。

菅原孝標女(源氏物語ラブ少女)が記した『更級日記』には、更級という言葉は出てこない。けれども、つぎのような晩年の叙述からそう呼ばれている。当時の人々にとって、姨捨=更級というのはいうまでもないことだったのである。

 甥どもなど、一ところにて朝夕見るに、かうあはれに悲しきことの後は、ところどころになりなどして、誰も見ゆることかたうあるに、いと暗い夜、六郎にあたる甥の来たるに、めずらしうおぼえて、
 月も出て闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ
とぞ言はれける。

『姥捨』は室町時代、謡曲にもなっている。芭蕉がさらしなの月を尋ねた直接の動機はこれである。同曲では、老女(後シテ)が月光のもと都人のまえで舞うのであるが、夜が明けると一人とり残されてしまう。芭蕉の句はこの情景を踏まえているのである。

 俤や姨ひとりなく月の友(ひとりなく=一人泣く)

口減らしのため老女を山に捨てたという捨老伝説は、現代の『楢山節考』(深沢七郎著・新潮文庫)まで脈々と受け継がれている。

そして映画化された。老女が健康な歯を恥じ、みずから石で歯をうちくだいた場面の衝撃はいまも鮮明に覚えている。

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