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2024年1月17日水曜日

善光寺、浅間山

 




 芭蕉の『更科紀行』の旅はさらに続く。

『更科紀行』は紀行文といっても、『おくのほそ道』のように地の文が十分でない。どちらかというと句集の前書、詞書といったふうである。更科あたりから地の文はない。句の内容から、その後の旅をおしはかるしかない。

 十五夜の翌晩、すなわち十六夜も、ひきつづき更級にいた。

 いざよひもまださらしなの郡哉

謡曲『姨捨』のイメージを踏まえた「俤や姨ひとりなく月の友」の気分をなお引きずっている。

 その後、善光寺。

 月影や四門四宗も只一ッ

一生に一度は参れ善光寺。三度目だろうか。牛にひかれて善光寺参り。JR篠ノ井線に乗って姥捨駅からやってきた。姥捨駅は無人であるから、長野駅で精算。

善光寺は日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺であることから、宗派の別なく宿願が可能である。つまり、四門四宗も只一つ。ただ一つの月が闇を晴らし、真如の月が煩悩を晴らす。

善光寺の東に長野県立美術館・東山魁夷館がある。「風景は心の鏡である」。スマホ上は営業中とあったのだが、残念ながら年末年始で休業中だった。「庵野秀明展」もおなじ。東山の白馬とも庵野のエヴァとも会えず。

 さらに、浅間山。

 吹とばす石はあさまの野分哉

浅間山も歌枕。『伊勢物語』第八段。

むかし、をとこありけり。京や住みうかりけむ。あづまのかたにゆきて、住み所もとむとて、友とする人ひとりふたりして行きけり。信濃の国浅間の嶽にけぶりの立つを見て、

 信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ

むかしもいまも、街に住みづらさを感じたをとこたちは信濃の国や浅間の嶽をめざしたようで。

2024年1月16日火曜日

姨捨山(2)棚田・田ごとの月

(棚田越に善光寺平)


(棚田越に冠着山=姨捨山)
 

 姨捨が月の名所であるのには、千曲川と善光寺平を見わたす絶景を背景にすることのほか、もう一つわけがある。あたり一帯に棚田が広がっているのだ。

そのうち長楽寺の持田四十八枚田を「田ごとの月」と呼ぶ。十五夜の夜、棚田を歩きながら、満月が田ごとに映り込むさまを愛でるのである。全国で初めて棚田として国の名勝に指定された。

この地が月見の名所とされた歴史は古い。平安時代の初めにはそうだった。なぜなら、つぎの歌が『古今集』に掲載されているから。

 わが心慰めかねつさらしなや姨捨山に照る月を見て よみ人しらず

この歌は当時の人々のイメージを強く喚起したようで、大和物語や今昔物語集に、妻の悪口に乗せられ、老いた姨を山に捨てた夫の話が掲載されている。

菅原孝標女(源氏物語ラブ少女)が記した『更級日記』には、更級という言葉は出てこない。けれども、つぎのような晩年の叙述からそう呼ばれている。当時の人々にとって、姨捨=更級というのはいうまでもないことだったのである。

 甥どもなど、一ところにて朝夕見るに、かうあはれに悲しきことの後は、ところどころになりなどして、誰も見ゆることかたうあるに、いと暗い夜、六郎にあたる甥の来たるに、めずらしうおぼえて、
 月も出て闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ
とぞ言はれける。

『姥捨』は室町時代、謡曲にもなっている。芭蕉がさらしなの月を尋ねた直接の動機はこれである。同曲では、老女(後シテ)が月光のもと都人のまえで舞うのであるが、夜が明けると一人とり残されてしまう。芭蕉の句はこの情景を踏まえているのである。

 俤や姨ひとりなく月の友(ひとりなく=一人泣く)

口減らしのため老女を山に捨てたという捨老伝説は、現代の『楢山節考』(深沢七郎著・新潮文庫)まで脈々と受け継がれている。

そして映画化された。老女が健康な歯を恥じ、みずから石で歯をうちくだいた場面の衝撃はいまも鮮明に覚えている。