2023年12月11日月曜日

マジカルミステリーツアー(4)

 



 最終日はまたまた強風雨となった。さてどうしよう。やはり芭蕉の足跡をたどろうか。そうだ、甲冑堂へ行こう!だが、甲冑堂は『おくのほそ道』にはでてこない。なぜか。

実は芭蕉の足跡には2種類ある。一つはもちろん『おくのほそ道』に記された足跡である。もう一つは芭蕉に随行した曽良が書いた『曽良旅日記』に記された足跡である。

『曽良旅日記』は長らく行方がしれなかった。それが1943年(昭和18年)に再発見された。その後、重要文化財となっている。

2人旅であるから、両者の足跡は一致しているはず。だが、実は一致していないところがある。どちらの記載が実際の足跡だろうか。

刑事訴訟では、反対尋問を経ない証拠は、いわゆる伝聞証拠であるとして受け入れられない。しかし、いくつかの例外がある。その一つ。商業帳簿、航海日誌その他業務の通常の過程にいて作成された書面は、例外とされている。

『曽良旅日記』は、その内容・体裁からここでいう航海日誌に近いものである。それゆえ、実際の足跡どおり忠実に記載がなされているものと思われる(曽良が幕府の隠密であり、そうとはかぎらないという点は別論である。)。

そこから、『おくのほそ道』の創作性が明らかとなった。『おくのほそ道』を読むと、一見、紀行文ふうに書かれているので、それまではみな、実際の足跡に忠実に書かれていると思い込んでいた。

ところが、実際の足跡により忠実な『曽良旅日記』が発見され、それと比較することが可能となった。その結果、『おくのほそ道』が創作物であること、すなわちその「文学」性が明らかとなったのである。

両者が一致しないところの一つが飯塚の里と笠島のくだり。まず、『おくのほそ道』。

(飯塚)
 ・・・またからはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、ふたりの嫁がしるし、まづあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしぬ。

(鐙摺・白石)
 鐙摺・白石の白を過ぎ、・・・。

つぎに、『曽良旅日記』。

(飯塚)
・・・佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門へ不入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。・・・

(鐙摺・白石)
・・・万ギ沼・万ギ山有。ソノ下ノ道、アブミコハシト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ、次信・忠信が妻ノ御影堂有。同晩、白石ニ宿ス。

現地に行けば、どちらが実物に即しているかは明白。いまでも『曽良旅日記』に書かれたとおりである。『おくのほそ道』は現地の実情に即してはいない。

飯塚の里は、佐藤庄司が治めていた。かれは奥州藤原氏の被官である。源頼朝に攻められて、奥州藤原氏とともに滅亡した。

かれの息子2人が次信と忠信である。ふたりとも源義経の忠臣であり、『平家物語』をはじめ、歌舞伎でも活躍する。

「ふたりの嫁」は次信と忠信の嫁のこと。次信と忠信の無事な帰還をまちわびる義母(つまり佐藤庄司の妻)のため、甲冑を着て無事の帰還を演じ義母を慰めたという。

飯塚の里に医王寺がある。医王寺には佐藤庄司夫婦の石塔や兄弟の石塔はあるけれど、「ふたりの嫁のしるし」は存在しない。

「ふたりの嫁のしるし」があったのは、鐙壊し(鐙摺)の先にある甲冑堂である。芭蕉は両者を融合させ、文章を引き締めたものと思われる。

こうして甲冑堂は『おくのほそ道』にそれとして記述されなかったが、そこで「ふたりの嫁のしるし」は拝見することができる。

・・・ことになっている。この日、甲冑堂を訪れたところ、強風雨のため閉鎖されていた。しかしあきらめきれない。

強風雨のなか、JR越河駅から道に迷いつつ、歩いてようやくここまで辿り着いたのである。

神主さんのご自宅を訪ね、玄関で声をかけた。80歳くらいの年輩のご夫人があらわれた。きょうは強風雨のため、甲冑堂の開張はできないという。

そこをなんとか、福岡から来たんです!と食い下がったところ、ご夫人は義経のこと、芭蕉のこと、甲冑堂のこと、これまで訪ねてきた客のこと、維持管理がたいへんなこと、行政が冷たいことなど延々と30分以上語りに語った。

こっ、これはいかん。ご開張に代えて、その埋め合わせに「語り」で済ませるおつもりではあるまいか。それはそれでとても面白い「語り」ではあったが、それでは証拠写真がとれないではないか。

玄関先をみると、お守りや甲冑堂の来歴をしらせる資料等が販売されていた。これください!ついでに拝観料もお支払いします!

これにご夫人は負けたという表情を浮かべられた。やった!かくて甲冑堂前のたたかいに勝利し、ふたりの嫁に対面することがかなったのであった。めでたし、めでたし。

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