スタバのあと。そうだ、東福寺展@京都国立博物館へ行こう!ということで、でかけた。
紅葉が残る時期だったのでリアル東福寺へも行きたかったが、インバウンドが回復した京都は京都駅からしてすでにすごい雑踏。東山に並ぶ観光寺院の周辺はとてもとても。紅葉というより人々の頭を拝見することになりそうだったので、あきらめた。
京都国立博物館はほんとうにひさしぶりだ。高校時代に訪れたことははっきりしているが、社会人になってからは1,2度だろうか。
東福寺は、奈良の東大寺と興福寺の二文字をとって名付けられた鎌倉時代の大寺院。いまもすごい大きさだが、当時はもっとすごかったのだろう。
禅宗(臨済宗)寺院である。こんかいの展示を拝見して、東福寺と禅宗のことがよくわかった。
これまで東福寺は5回以上訪れている。が、重森三玲(岸和田城の石庭でご縁がある。)の作庭とかは嘆賞しても、このような理解がなされることはなかった。
東福寺は、1236年、摂政九条道家の発願。上皇を中心とする京都勢が武家の鎌倉勢に敗れた承久の変が1221年であるから、その後のことである。
日本史の教科書では、それ以後、武家の世となる。けれども、その後においても、公家がこのような巨大な大寺院を建立する経済と政治力をもっていたことに驚かされる。
開山は禅僧の円爾。同じ臨済禅を伝えた栄西ほど知られていない。日本史の教科書に記述がなかったかもしれない。けれども、中国・宋で禅の修行をし、南宋禅林の巨匠であった無準師範から法を嗣いだ。
禅を創始したのは面壁9年にして悟りを得たダルマである。ダルマは中国に渡り、禅宗を開いた。弟子たちによって代々受け継がれた。
中学の美術の教科書だったか、切断した腕を差し出す慧可が描かれていたが、かれが2代目である。以降も系図がはっきりしている。したがって、巨匠であった無準師範から法を嗣いだ円爾も栄西に負けず劣らない(かもしれない)。
かれは日本に帰国する際まず博多に上陸した。そして大宰少弐・武藤資頼(太宰府に墓が残る。)に依頼され承天寺を創建した。いまも博多区に伽藍が残る。
承天寺には宝満山の麓にも別院が存在する。宝満山に登り、うさぎ道を竈門神社方面へおりる。内山城跡をみて、すこしくだると右手に山門がある。
円爾は、その後上洛して、東福寺を開山した。その後も、円爾と師の無準との交流は途絶えることなく、手紙や書などの交流を欠かさなかった。いまもむかしも変わらぬ、仰げば尊し我が師の恩・・。
などなど学ぶことができた。
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