2022年11月28日月曜日

松帆の浦・明石海峡

(松帆の浦) 

(絵島) 

(海峡越しに一ノ谷・須磨)


 (明石海峡と明石海峡大橋)
 
 旅の第1の目的地は大塚国際美術館、第2の目的地は松帆の浦。そう言われても知らない人がほとんどだろう。

 来ぬ人をまつ帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ 権中納言定家

これなら知る人も多いだろう。百人一首の代表歌。定家が撰者なので、よほどの自信作と思われる。そこで詠まれている松帆の浦へ一度行ってみたかった。

松帆の浦は淡路島の北端にあり、明石海峡をへだてて、本州の明石・舞子・須磨と接している。西には播磨灘をへだてて、小豆島の島影が見える。

定家の歌の本歌は『万葉集』の笠朝臣金村の歌。

 なき隅の船瀬ゆ見ゆる淡路島 松帆の浦に朝なぎに 玉藻刈りつつ夕なぎに
 藻塩焼きつつ海女少女 ありとは聞けど見に行かむ よしのなければ上部の
 情はなしに手弱女の 思ひたわみて徘徊り 我れはぞ恋ふる船梶を無み

本歌の主人公は明石側から淡路島の女を恋している。これをひっくり返して淡路島側から恋する乙女の立場で詠んだのが定家の歌。塩がじりじりと焼けるような情念・・。

定家には「三夕」の歌の一つとして名高いつぎの歌もある。浦の夕暮れは詩心をさそうようだ。

 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

松帆の浦から東へすこし行くと絵島がある。絵島というと大奥を思い浮かべるが、そうではなく月見の名所である。西行の歌碑がある。

 千鳥なく絵島の浦にすむ月を波にうつして見るこよいかな

西行と時代をおなじくする『平家物語』にも、「福原の新都におられる人々」が絵島で月見をした話がでてくる。

 やうやう秋も半ばになりゆけば、福原の新都にまします人々、名所の月を見んとて、或は源氏の大将の昔の跡をしのびつつ、須磨より明石の浦づたひ、淡路の瀬戸をおし渡り、絵島が磯の月を見る。

絵島からは海峡越しに、一ノ谷や須磨あたりをのぞむことができる。写真の緑の部分が鉢伏山、その向こうが一ノ谷や須磨のあたりである。一ノ谷は源平合戦の激戦地。大手の戦いは神戸・生田神社のあたり。一ノ谷は搦め手側。義経が鵯越を越えて活躍したためか、敦盛最後など『平家物語』の悲劇が一ノ谷に集中したためか、一ノ谷の戦いと呼ばれる。

福原は源平合戦が勃発して平清盛が緊急避難して新都を築こうとしたところ。神戸の南部、大和田の泊があったあたりが予定地とされる。しかし不人気で途中で計画は放棄され、旧都に復したとされる。

源氏の大将の昔の跡をしのびつつとあるのは、ややこしい。『平家物語』にでてくる源氏ではなく、『源氏物語』にでてくる光源氏のこと。光源氏は一時失脚して、須磨に隠棲した。それが「須磨」の段、そこから「明石」の段を経て再起していく。

いくら紫式部が天才といっても、「須磨」や「明石」の段が彼女のイマジネーションだけで書けたわけではない。須磨や明石をめぐっては古今集などに多数の和歌が存在するほか、関連して故事も存在する。

なかでも有名なのは、在原行平の故事と歌である。行平は『伊勢物語』で有名な在原業平の兄。文徳天皇のときに須磨に蟄居を余儀なくされたという。 

 わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ詫ぶと答えよ

『源氏物語』の「須磨」の段がこのエピソードを踏まえていることは、本文中に明らか。行平には百人一首にとられた次の歌もある。

 立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む

これは必ずしも須磨の蟄居とは関係ない時の歌のようだが、惜別の内容から行平を悲劇の主人公とイメージさせる。業平ほどではないにせよ、女性にももてたことだろう。

謡曲の「松風」は、須磨を訪れた諸国一見の僧が、松風村雨という姉妹の亡霊に出会い、彼女らが行平に恋い焦がれる曲になっている。

淡路島、明石海峡、明石、須磨、神戸。風光明媚だという評価は、ここが日本一だろう。もともとの自然の美しさもさることながら、そのうえに積み重なった歴史や古典の美しさ。美しいイメージがつぎつぎに喚起される。みなさまも一度どうぞ。

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