2024年6月6日木曜日

小式部内侍って誰?

 

 大江山いく野の道の遠ければ
       まだふみも見ず天の橋立  小式部内侍

 母の住む丹後国は、大江山を越え、生野を通って行く道のりが遠いので、まだかの有名な天の橋立を踏んでみたこともありませんし、母からの手紙も届いておりません。

百人一首60番の歌。小式部内侍は和泉式部と橘道貞(和泉守)の間の娘。母同様、彰子に仕えた。

 この歌は詞書といっしょに読まないとこうは訳せない。詞書はつぎのとおり。

 和泉式部、安昌に具して丹後国に侍りけるころ、都に歌合のありけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかがさせ給ふ、丹後へ人はつかはしけむや、使はもうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむ、などたはぶれてたちけるをひきとどめてよめる


 中納言定頼は、百人一首64番に歌を採られている歌人。あの公任の子である。

 定頼は小式部内侍に気があったのか、すこし失礼な戯れごとを言ってしまった。和泉式部は当時、①橘道貞(小式部内侍の父)、②為尊親王、③敦道親王につづく、第4の男④藤原保昌と再婚し、夫の任地である丹後についていっていた。

そうした折り、歌合が開かれることになり、小式部内侍にもお声がかかった。母の名声があまりに高かったので、定頼は「お母様に頼んだ代作の手紙は届きましたか」と冗談を言ったのだ。それに対する反撃が上記の歌。みごと。


(唐津くんち11番曳山 酒呑童子と源頼光の兜)

 大江山に酒呑童子という鬼が出没し、源頼光(マサカリかついだ金太郎はその家来)が退治した。はねられた酒呑童子の首は宙を飛んで頼光の兜にかぶりついたという。

頼光のほうが年長だが没年はあまり変わらないので、小式部の内侍と頼光は同時代人といってよい。このころ、大江山には酒気を帯びた盗賊団が多数出没したのだろう。丹後までの道は地理的のみならず治安・労力的にも遠かったはずだ。


 定頼のこうした軽率な性格は父譲り。父・公任は紫式部におなじような戯れごとを言って、聞き流しの返礼をこうむっている(『紫式部日記』五十日の祝い)。

 左衛門の督(公任)、
 「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」とうかがひ給ふ。源氏にかかるべき人も見え給はぬに、かの上はまいていかでものし給はむと、聞き居たり。

 若紫は『源氏物語』に登場する源氏の最愛の女性・紫の上の幼いころの呼び名。公任としては「さいきん評判の源氏物語の作者さんはいらっしゃいますか?若紫の名で呼んじゃおうかな?」みたいなつもりだったろうが、紫式部のまじめな性格をまえにして玉砕。おのれのみ砕けてものを思ふころとなった。まるで「虎に翼」における伊藤沙莉と沢村一樹の間のやりとりのよう。

 清少納言と行成のやりとりが『枕草子』に複数記載されていることは前に紹介したとおり。女官たちは男性官僚たちのちょっかいに悩んだり、かけあいを楽しんだりしたことだろう。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

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