かくとだにえやはいぶきのさしも草
さしもしらじなもゆる思ひを 藤原実方朝臣
このようにあなたに恋しているとさえ、言うことができません。だから、あなたは、伊吹山のさしも草が燃える火のように、これほどにも燃える思いであることを、ご存じないでしょうね。
百人一首51番の歌。実方(さねかた)はこれまで紹介した公任、道信のほか、源重之と親しかった。しかし「光る君へ」には登場していない。しかし光源氏のモデルのひとりとされている。
大垣から西に伊吹山を望む(右側の山塊)。伊吹山のこちらがわの麓は関ヶ原(不破の関)。向こうは彦根や琵琶湖。つまり、山は東日本と西日本を扼する位置にある。
石灰岩(サンゴからできる)でできていて、海の底が隆起してできたことがわかる。日本海と太平洋の湿った空気が交互に入り霧を発生させる。そのような地質、気象から多彩な植物がはえている。
平安時代からそうだった。お灸につかうモグサ(さしも草)もそのひとつ。歌に詠まれるぐらいだから。
実方は花山天皇、一条天皇につかえたが、行成(5月22日の「行成って誰?」参照)と喧嘩し、彼の冠を投げ捨てたところを一条天皇に目撃され、「歌枕見てまいれ」と陸奥守に左遷されたという。
史実かどうか疑われているエピソードであるが、伊周(儀同三司)が大宰府に左遷された史実や実方が東国の歌枕で歌をたくさん詠んでいることによく符合している。
またそのような辺境に流された貴人のイメージが光源氏のモデル(須磨・明石の)とされるゆえんである。光源氏はのち政界に復帰したが、実方は陸奥の地で亡くなった。
写真は室の八島(栃木県)。『おくのほそ道』にも登場する歌枕。実方はつぎの歌を残している。
いかでかは思ひありとも知らすべき
室の八島のけぶりならでは
芭蕉同行の曽良の解説によると、室の八島とは「この神社の祭神は、コノハナサクヤヒメの神と申して、富士の浅間神社と同じご神体です。戸のない塗り籠めの室に入って日を放って身をお焼きになり、潔白の誓詞を立てられたその火の最中に、彦火火出見尊がお生まれになったということから、室の八島と申します。」「和歌の方で、室の八島について煙をよみならわしてきたのも、このいわれによるものです。」
写真は白河の関。奥州三古関のひとつ。ここから先、みちのくに入る。古来、歌枕とされてきた。実方の歌は
いかでかは人の通はんかくばかり
水だに漏らぬ白河の関
写真は安積山(あさかやま)。福島県郡山にある歌枕。古今集の仮名序にも出てくる。
端午の節句に葺く菖蒲が陸奥になかったことから、実方は代わりにあさか沼の花かつみを葺けと命じたという。
写真は笠島道祖神社。実方はこの神社のまえを下馬しないで通ろうとしたため神罰が下っ落馬・落命したという。
後年、西行が訪ねている。そこはススキの生い茂る枯れ野となっていた・・・。
朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて
枯れ野の薄かたみにぞ見る
公任の「滝の音は」に似ているが、西行らしく墨染め色である。
※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。
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