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2024年5月28日火曜日

源重之って誰?

 

 風をいたみ岩うつ波のおのれのみ
        くだけて物を思ふころかな  源重之

 風が激しいので、岩に打ち寄せる波が自分だけ砕け散るように、相手は平然としているのに、私だけが砕け散るような、恋の物思いをしていることよ。

百人一首48番の歌。昨日紹介した実方とともに陸奥国に下向し、同地で没したという。
父・兼信が陸奥国安達郡に土着していることから、実家に帰ったのかもしれない。


安達太良山の青い空がほんとうの空と指をさす智恵子像


中央が安達太良山

陸奥国安達郡は、高村光太郎の『智恵子抄』で有名な安達太良山の麓である。


鬼女が住んでいたという黒塚

安達太良山の麓には、安達ヶ原がひろがっている。安達ヶ原には黒塚がある。つまり、謡曲『安達原』ないし『黒塚』の舞台である。ストーリーはこう。

 阿闍梨祐慶ら修験者らは、諸国をめぐる修行をしていた。旅の途中、人里離れた安達ヶ原で日が暮れてしまう。一軒だけあったあばら家の女に一夜の宿を提供してもらうことになった。

 夜更け、女は薪をとりにいくと言って出かけた。出かける際、自分の寝室を覗かないよう女は一行に釘をさした。けれども、従者が覗いてしまい、そこにはおびただしい数の死骸が。あわてて逃げ出す一行を鬼となった女が追いかける・・・。

禁じられると破りたくなる。童話『みるなのくら』のよう。



さて、源重之の友だちに平兼盛がいた。兼盛はつぎの歌を詠んでいる。

 名取郡黒塚に重之が妹あまたありと聞きつけていひつかしける

 陸奥(みちのく)の安達ヶ原の黒塚に鬼籠もれりと言ふはまことか

兼盛が妹たちに贈った恋歌らしい。恋しいけれども娘たちを鬼に例えた。小学生か。

鬼女伝説が先か、歌が先か。両説あるようだ。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月27日月曜日

実方って誰?

 

 かくとだにえやはいぶきのさしも草
        さしもしらじなもゆる思ひを  藤原実方朝臣

 このようにあなたに恋しているとさえ、言うことができません。だから、あなたは、伊吹山のさしも草が燃える火のように、これほどにも燃える思いであることを、ご存じないでしょうね。

百人一首51番の歌。実方(さねかた)はこれまで紹介した公任、道信のほか、源重之と親しかった。しかし「光る君へ」には登場していない。しかし光源氏のモデルのひとりとされている。


大垣から西に伊吹山を望む(右側の山塊)。伊吹山のこちらがわの麓は関ヶ原(不破の関)。向こうは彦根や琵琶湖。つまり、山は東日本と西日本を扼する位置にある。

石灰岩(サンゴからできる)でできていて、海の底が隆起してできたことがわかる。日本海と太平洋の湿った空気が交互に入り霧を発生させる。そのような地質、気象から多彩な植物がはえている。

平安時代からそうだった。お灸につかうモグサ(さしも草)もそのひとつ。歌に詠まれるぐらいだから。


 実方は花山天皇、一条天皇につかえたが、行成(5月22日の「行成って誰?」参照)と喧嘩し、彼の冠を投げ捨てたところを一条天皇に目撃され、「歌枕見てまいれ」と陸奥守に左遷されたという。

史実かどうか疑われているエピソードであるが、伊周(儀同三司)が大宰府に左遷された史実や実方が東国の歌枕で歌をたくさん詠んでいることによく符合している。

またそのような辺境に流された貴人のイメージが光源氏のモデル(須磨・明石の)とされるゆえんである。光源氏はのち政界に復帰したが、実方は陸奥の地で亡くなった。

 写真は室の八島(栃木県)。『おくのほそ道』にも登場する歌枕。実方はつぎの歌を残している。

 いかでかは思ひありとも知らすべき
       室の八島のけぶりならでは

芭蕉同行の曽良の解説によると、室の八島とは「この神社の祭神は、コノハナサクヤヒメの神と申して、富士の浅間神社と同じご神体です。戸のない塗り籠めの室に入って日を放って身をお焼きになり、潔白の誓詞を立てられたその火の最中に、彦火火出見尊がお生まれになったということから、室の八島と申します。」「和歌の方で、室の八島について煙をよみならわしてきたのも、このいわれによるものです。」



 写真は白河の関。奥州三古関のひとつ。ここから先、みちのくに入る。古来、歌枕とされてきた。実方の歌は

 いかでかは人の通はんかくばかり
         水だに漏らぬ白河の関 


 写真は安積山(あさかやま)。福島県郡山にある歌枕。古今集の仮名序にも出てくる。

 端午の節句に葺く菖蒲が陸奥になかったことから、実方は代わりにあさか沼の花かつみを葺けと命じたという。


 写真は笠島道祖神社。実方はこの神社のまえを下馬しないで通ろうとしたため神罰が下っ落馬・落命したという。


 笠島道祖神社にほどちかい実方の墓。
 後年、西行が訪ねている。そこはススキの生い茂る枯れ野となっていた・・・。
 
 朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて
          枯れ野の薄かたみにぞ見る 

 公任の「滝の音は」に似ているが、西行らしく墨染め色である。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2021年6月25日金曜日

雄島が磯ー胡蝶の夢

 


 塩竈から船を借りて松島に渡った芭蕉一行は、雄島の磯に着きました。 

 雄島が磯は、地続きて海に出でたる島なり。雲居禅師の別室の跡、座禅石などあり。松の木陰に世をいとふ人もまれまれ見えはべりて、落穂・松笠などうち煙りたる草の庵、閑かに住みなし、いかなる人とは知られずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに、月、海に映りて、昼の眺めまた改む。

雄島は松島の多島の一つ。芭蕉が書いているように、陸の一部のようでもあり、島であるようでもあり。陸にも海にも通じている地形です。

そこから、この世とあの世をつなぐ場であるとされ、死者の霊魂が行き来する霊場になりました。高野山もそうであることから「奥の高野」と呼ばれました。

もちろん雄島は歌枕。百人一首の殷富門院大輔の歌はご存じでしょう。
 
 見せばやな雄島の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変はらじ

本歌は、黒塚の段ででてきた源重之のこの歌。

 松島や雄島の磯にあさりせし 海人の袖こそかくは濡れしか

芭蕉は歌枕・雄島を訪ねながら、こうした色恋の歌には一切触れず、雲居禅師や世をいとふ人々に心をよせています。どうしてでしょう。 

雲居禅師は、瑞巌寺を中興した臨済宗の禅僧。雲巌寺の段にでてきた仏頂和尚の師匠です。雲巌寺も臨済宗の寺でした。仏頂和尚は芭蕉の禅の師匠ですから、雲居禅師は大師匠にあたります。

禅宗は、知識を得ることではなく、悟りを開くことが目的。悟りとは、生きるものの本性である仏性に気づくことであり、仏性とは言葉による理解を超えたものを認識する能力のことだそうです。

悟りは、言葉ではなく、座禅などを通じ感覚的・身体的に伝えられます。が、雲居禅師は、平易な念仏で民衆を教化したという異色の禅僧です。

師匠の師匠であり、感覚的・身体的に伝えられている禅の精神を平易な念仏で人々に伝えたという雲居禅師を芭蕉が慕うのは当然です。

では世をいとふ人はどうでしょう。世をいとふ人としては、すでに須賀川の段で、大きなる栗の木陰を頼む僧がでてきました。世の人の見付けぬ花や軒の栗の人です。

芭蕉が世をいとふ人に心をよせるのは、仏頂和尚に教えてもらった『荘子』の影響です。いわゆる老荘思想のうち荘のほうです。あるがままの無為自然を好み、人為を嫌います。俗世間を離れ、無為の世界に遊び、自由に生きることを求めます。胡蝶の夢です。

禅や『荘子』を学んだことが、蕉風に影響を与えたことは当然でしょう。ものの姿や動きをそのまま平明な言葉で写しとること、やたらと手を加えないこと、いらぬ趣向や工夫を捨て去ること。おくのほそ道の旅を経て芭蕉がつかんだ「かるみ」の考えは『荘子』の考えそのものです。

仏果ならぬ、仏頂を得たことが蕉風飛躍の足がかりになったわけです。先達はあらまほしき事なり。

などと思うほどに、はや日も暮れ、松島の月がのぼりました。続きはまた来週。今夜はストロベリームーンが見られるかな。

2021年5月12日水曜日

安達原・黒塚

 

浅香山で花かつみをさがしあぐね、芭蕉はあきらめて福島に向かいました。途中、二本松より右に切れて、黒塚の岩屋を「一見」しています。

芭蕉は触れていませんが、黒塚については謡曲があります。曲名は「黒塚」もしくは「安達原」です。

熊野山伏の祐慶がワキです。例によって諸国をめぐって修行中、安達原で日が暮れてしまいました。しかたがないので野中のぽつんと一軒家に宿を請います。

あるじの女は薪を採りに山に出かけます。出がけに、決して閨(寝室)を見るなと言い残して。にもかかわらず、山伏の従者が閨を見ると死骸の山。あわてて逃げ出すと鬼女が追いかけてくる・・という話です。

この鬼女伝説はふるく王朝時代にはあったようです。この鬼女伝説をもとにした歌を平兼盛が詠んでいるからです。

兼盛は白河の関で、すでに登場しました。その時の歌はこれでした。

 たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと

百人一首にはつぎの歌が採られています。

 しのぶれど色にいでけりわが恋は 物や思ふと人のとふまで

その兼盛には友人がいました。源重之です。重之は藤原実方とも仲がよかったようで、実方が陸奥に下向した際、いっしょに行ったようです。重之も百人一首に歌が採られています、つぎの歌です。

 風をいたみ岩うつ波の己のみ くだけて物を思ふころかな

ふたりとも歌もうまい、女にももてるというライバルどうしだったようです。一方の重之は、父が安達原に土着し、たくさんの妹がいました。これを知った兼盛がひやかしに詠んだのが次の歌でした。

 陸奥の安達原の黒塚に 鬼こもれりといふはまことか

兼盛がこんな歌を詠んだのは、重之の妹たちに下心があったことはもちろんでしょうが、ふたり共通の認識として鬼女伝説がすでに存在したからです。

兼盛による「まことか」という質問に対する答えが謡曲の「黒塚」「安達原」という趣向になっています。「まことだよ」ということです。

子どもが小さいころ、「みるなのくら」という絵本を読み聞かせていました。福音館書店刊、おざわとしお再話、赤羽末吉画の美しい絵本です。

ある貧しい若者がうぐいすの声に誘われて山奥に迷い込み、美女がもてなす。その屋敷のくらを見るなと言われたにもかかわらず、男は見てしまう・・。

再話というからには、いまもそのような伝説が残っているということです。いまも昔も、女に見るなと言われて、それを守れた男はいません。見るなと言われると条件反射的に見てしまう、男はそのようにDNAにプログラムされているのです。

昔話「鶴の恩返し」もそうです。昔話は、「見るな」と言われたのに見ると怖い目にあうよという、男に対する教えなのでしょうか。むしろ、バカな男に「見るな」と言っても無駄だよという、女子に対する教えではないでしょうか。あはは。

李白・杜甫や先輩歌人たちには言及していますが、芭蕉は謡曲にはまったく触れていません。なぜでしょう。じぶんが謡曲中の諸国「一見」の僧そのものであるとの認識だったからでしょうか。