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2022年1月11日火曜日

冬の旅(2)-谷汲山華厳寺

 







 大垣駅から樽見鉄道に乗る。1984年国鉄から三セクに移行。住友大阪セメントの輸送に使っていたらしい。途中、綾部駅から西に石灰岩の採掘跡が見えるが、あそこででセメントを作っていたのだろう。

いまはセメント輸送にも使用されず、客車が一両のみ。ご多分にもれず経営は苦しいようで、いろんな企画列車が走っている。一本前はプラレールのラッピングがしてあったが、これはどなたか社長の顔が標識板に掲げられている。

東大垣駅をすぎてしばらくすると、揖斐川を渡る。西側がおおきく開ける。前山の奥、冠雪した伊吹山が美しく輝いている(ワンクリックして拡大すると、11時の方角に)。

40分ほどで谷汲口駅。バスに乗り換え10分余。そこからまた10分ほど門前町を歩くと山門前に着く。途中、雪かきが精力的に行われていた。

谷汲寺は正式には谷汲山華厳寺。天台宗の寺院で、本尊は十一面観音。西国三十三所の三十三番目の札所である。三十三所のなかでは、唯一近畿地方以外にある。

ガイドブックによると、西国三十三所めぐりはどの寺からはじめてもよいとされている。しかし昔は1番から順番に徒歩にて巡礼したようである。そのため満願の寺とされている。

いまの世で1番から順番に巡礼しないといけないとなると、途中で挫折する人が続出してしまう。全集ものや、上中下三巻もののうち、最初だけ読んであとは読まないようなものだ。

そのためどこから初めてもよいことになっているのだろう。そうでなければ谷汲寺を参拝する人は半減してしまう。自身もいきなり最終回の本寺を参拝することはできなかった。

華厳とは、多くの修行・功徳を積んで徳果が円満にそなわり、仏になること。まさにこの寺の名にふさわしい。雪がふったあとであり、いつもとちがう風景に接することができた。ありがたい。


2022年1月7日金曜日

冬の旅(1)ー大垣

 




 年末年始は雪山にこもって修行と反省と感謝をする予定だった。しかし大雪が予想されていた。仕事納めの朝の天気予報でもそうだった。実際、トミーの実家のある近江では70センチも積もったらしい。

やむなく雪山は中止。山小屋に電話をかけてすべてキャンセルした。名古屋に前泊する予定だったので、その予約だけを残し、名古屋から大阪方面へ「冬の旅」をすることにした。

主には西国三十三所めぐりである。岐阜には満願となる三十三番札所がある。そこを手はじめに、いくつかの札所をめぐることを考えた。

これには2つの経緯がある。1つは、四王寺山の三十三石仏めぐりとの関連。コロナ禍のなか遠出が憚られる折に、よくめぐるようになった。

起源は江戸時代。西国三十三所の札所の土を集めて、四王寺の山上に整備したらしい。甲子園の土を記念に持ち帰るようなものだろう。

江戸時代の庶民は旅行など手軽にできなかったろうから、身近な巡礼路として歓迎されたのではなかろうか。そのご利益がコロナ禍のわれわれにまでおよぶことになろうとは。

ご用納めの日には事務所会議も開かれ、例の近況報告もなされた。担当だったので、そのように報告した。札所の土をもちかえるよう提案がなされたが、「もちかえってよいのは写真だけ」と回答。

経緯の2つはこうだ。本ブログでも報告したとおり昨年10月、岐阜県にある二百名山の能郷白山に登った。アプローチは大垣から樽見鉄道を利用。その途中、谷汲口駅で停車した。あとで調べたら、三十三番札所が谷汲寺といい、その入口という意味だった。

浅からぬご縁を感じた。いわゆるシンクロニシティだ。むろん科学的には単なる偶然の一致である。

しかし、考え方は2つに分かれる。1つは偶然の一致だから、意味はないと考える途。もう1つはなにかの導きであり、とても意味があると考える途。もちろん後者の途を選択している。そのほうが幸せになれるから。

宗教を信じている人と信じていない人とでは、前者のほうが幸せ度が高いそうだ。それはそうだろう。科学的に証明されなくても、来世があると信じたほうが安らかに生き、安らかに死ねるだろう。自身、来世があるとまでは信じていないけれども。

ということで28日は名古屋で宿泊し、翌朝、谷汲寺をめざした。東海道線で北上し、大垣駅で樽見鉄道に乗り換えだ。ところが乗換まで1時間の待ち時間があった。

やむをえず、昨年10月につづき、大垣市内めぐり。大垣城を経由して「おくのほそ道むすびの地」へ。そこで芭蕉と木因がでむかえてくれる。

芭蕉はそこから舟に乗って南(伊勢)にむかう旅だった。それを示すように、川べりには住吉燈台と鵜飼舟が。

こちらは水門川沿いを北へ戻る。川が東に向きを変えるところに八幡神社があり、句碑が建っている。

 折々に伊吹を見ては冬籠り

建物がたてこんでいて、さすがに神社からは伊吹が見えない。どこか見えるところはないかなと歩いていると、駅前を流れる川ぞいに冠雪した伊吹が見えた。美しい。

マンホールのデザインもむすびの地だ。住吉燈台と舟。それにサツキがあしらわれている。花の季節にまた来たいな。

2021年10月29日金曜日

能郷白山登山記ー猿楽ことはじめ

 







 土曜の朝、大垣の天気は快晴。・・・だったが、天気予報をみていると、福井のほうの山には雨がふると言っている。あれれ。どうしよう。

きょうの目的地である能郷白山(のうごうはくさん)は、1617mの二百名山である。百名山の白山とは別ものだ。

岐阜と福井の県境に位置している。むこう側は福井県の越前大野である。日本百名山の荒島岳や福井恐竜博物館にほどちかい。天気予報どおりであれば、少なくともむこう側は雨だ。

南のほう、御在所岳に目的地を変更する案も頭をかすめたが、当初の計画どおり能郷白山を目指すことにした。

電車の時間まで1時間ほどあったので、朝食後、大垣城まで散歩した。車もすくなく、散歩をするにはよい街だ。散歩をしている人も多い。

目的地までは樽見鉄道を利用する。といっても九州人にはわかるまい。岐阜県は山国だ。山の間を渓谷を削り、大きく3つの川が流れ、それにそって鉄道がはしっている。

東から順に、JR高山本線、長良川鉄道、そして樽見鉄道だ。JR高山本線は飛騨高山を経て富山に至る。詳しくは明日。

長良川鉄道は郡上八幡を経て終点、北濃へ行く。終点の北に、二百名山の大日ヶ岳があり、いちど乗ったことがある。

樽見鉄道は、大垣駅内にホームがあることからもわかるとおり、もとは国鉄で、いまは三セクになっている。かつてはセメント輸送の要だったようだが、トラック輸送に代わられ、存続が危ぶまれている。

そのため、イベント列車などの工夫がこらされ、行も帰りもカラフルな列車だった。車両は一台で、もちろんワンマンカーだ。

大垣駅をでると、さっそく西に伊吹山が美しい姿を現す。他の山が緑におおわれた円錐形であるのに対し、石灰岩がむきだしのカクカクした姿だ。

その北側には山並みが続いている。真北には能郷白山が望めるはずだが、どれかは特定できない。春になれば、最後まで雪が残るらしい。そのころであれば、特定できるだろう。

途中、左手にやはり石灰岩の採掘をしている山があった。かつてセメント輸送をしていたのは、ここからだろうか。

綾部をすぎると、根尾川沿いになる。とても美しい川だ。列車は川をなんども渡って上流をめざす。

神海(こうみ)をすぎると、乗客はぼくだけになった。川幅はせまくなり渓谷になる。鉄橋をわたる間、美しい川が垣間見える。アユ釣りがさかんだそうだ。帰りに、釣りをしている人を見かけた。

終点の樽見に着いた。降りようとすると、運転手がビクっとした。乗客がいるとは思わなかったようだ。廃線が危ぶまれるはずだ。

駅前にタクシーはいない。甘かった。いちおう鉄道の終点駅であるから、タクシーの一台くらいは待っていると思ったのに。電話すると10分ほどお待ちください。が、20分待った。

運転手は若く、以下、運ちゃんと呼ぼう。会話がはずんだ。飛騨だけに林業が盛んなんだそうだが、花粉症に悩まされているそうだ。山頂付近は雪になっているかもしれないと脅された。うひゃ。

困ったことに、登山口まで歩いて1時間ほど手前の地点で降ろされた。林道が荒れて、ロープがはられ、車では入れないそうだ。

しまった。山と渓谷社のガイドブックにしたがい、往復のコースタイム5時間10分でギリギリの計画をたててきた。プラス往復2時間の歩きが入ると、帰りの列車に間にあわない。仕方がない。行けるところまで行って、戻ってこよう。

リサーチ不足だ。100名山のときは、こういうことはなかった。200名山ということで、甘く考えていた。

気もそぞろに歩き出す。雨が降り出した。傘をさす。日が差してきた。暑い。一枚脱ぐ。谷筋にでて、山から北西風が吹きおろしてきた。寒い。一枚着る。この日はずっとこんな感じだった。晴れては曇り、降ってはあがる。天気はめまぐるしく変化した。

かなり近くでシカが鳴く。キュイイイィィィーン。メスを求めるオスの鳴き声だ。とてももの悲しい。奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき。ほんとうにそうだ。

ザックから熊鈴をとりだしてつけた。チリン、チリン。運ちゃんによると、昨日、駅近くの公園でクマが目撃されたそうだ。ニュースでも昨日、窓をあけて車のなかで休憩していたら、クマに襲われたと言っていた。熊鈴をつけると、シカ、カモシカや他の小動物にもあえなくなってしまうが、やむを得ない。

しばらく行くと、林道上に野生のサルが群れていた。熊鈴の効果なし。7,8匹か。親子連れもいる。自然との対峙だ。動物園でお目にかかるのとは違う緊張感がある。連中がその気になって襲ってきたら、大けがは免れまい。

写真を撮っていたら、逃げ出した。ほっ。うち一匹が樹上でこちらを窺っている。さらに近づこうとすると、慌てて逃げ出した。

ギャッ、ギャッ。鳥が鳴いている。ホシガラスのようだ。ホシガラスは高山で見かける。この程度の標高でもいるのか。疑問に思ったが、鳴き声、姿ともそのようだ。

たしかに林道は荒れている。落石がところどころ散らばったままになっている。さらに行くと水流に土をもっていかれて、岩がむき出しになっている。川に削られて、橋が無くなっているところさえある。車が入れないはずだ。

ガイドブックの登山口まで小1時間かかった。ふう。キュイイイィィィーン。またシカが鳴く。人影はない。心細い。

谷川にかけられた心細い橋を渡る。急坂を登る。また急坂を登る。その間、雨が降ったり止んだりする。傘をさしたり閉じたりする。傘にするか、レインウェアにするか、判断が難しい。下手にレインウェアを着ると、内側から汗で濡れてしまう。

急坂を登りきると、小尾根の稜線だ。ようやく1合目。ブナの林が美しい。

さらに登ると、左側からくる本尾根と合流する。2合目だ。標高1000mを超えた。一瞬、前方の峰が白くなる。雪が降ったのであろうか。落ち葉にもよく見ると、白いものがついている。

惜しい。猿がいたあたりで、しぐれていれば、名句を吟じることができたのに。

 初しぐれ猿も小蓑を欲しげなり

老ブナ坂にさしかかると、ブナの幹が太くなる。樹齢をすぎて枯れているのもある。枯れても造形美を感じさせる。しぶい。

登頂はともかく、前山までは行きたかったが、山中で予定していた5時間10分の半分の時間になったので、撤退することとした。リベンジを誓う。

帰り道で、またサルの群れにあった。おなじ群れだろうか。人数というか、サル数がふえている。二匹で遊んでいるのもいる。楽しそうだ。

そういえば、運ちゃんから問題をだされた。なぜ、能郷と呼ばれるのか。

村中に白山神社があり、そこで年1度、能と狂言が奉納される。能が奉納される郷だから、能郷なんだそうだ。4月13日。ちなみに樽見はうすずみ桜も有名。うまくすれば両方みることができる。

能楽のご先祖さまは猿楽だ。能舞台にもそう書いてある。なるほど、お前たちのご先祖さまが、われわれ人間のご先祖さまに、お能を教えてくれたのか。ありがとうよ。

※猿楽ことはじめは、杉田玄白著『蘭学事始』のもじり。言われなくとも分かる?すみません、読者を信じきれなくて。

2021年10月28日木曜日

大垣ーおくのほそ道拾遺⑤

 


 弁護士になりたてのころ、司馬遼太郎の『国盗り物語』や『関ヶ原』などを読んでいた。出張ついでに古戦場などにでかけた。

秀吉が水攻めをしたという備中高松城跡や、光秀を破った天王山などは、かれのスケールの大きさ、果断さが実感でき、実に興味深かった。

名古屋出張のときには、桶狭間、関ヶ原などの古戦場や、犬山城、岐阜城などを訪ねた。

桶狭間などは宅地化してしまっていた。なぜこのようなところで奇襲が成功したのか、分からないと感じた。

関ヶ原は、西軍の石田三成や東軍の徳川家康の陣屋をはじめ、各大名の布陣がわかり、手に汗にぎった。

『関ヶ原』を読むと、石田三成の悩みが書かれていた(と思う。もうだいぶ昔の記憶なので)。東からやってくる家康の大軍を迎え撃つにあたり、どこを決戦場とすべきかという悩みである。

家康は野戦を得意としていた。大垣は石田三成の居城だったので、大垣で籠城戦という選択肢もあった。しかし、関ヶ原の戦いという野戦で雌雄が決せられたのである。なぜ、そうなったのか。読ませどころだ。

しかるに、大垣は未踏だった。未踏のまま、おくのほそ道を書いた。これではいけない。というわけで、金曜は大垣を訪れた。

大垣は濃尾平野の北西部に位置する。揖斐川、水門川をはじめとする多くの河川や湧水が豊富であり、水の都である。交通の要衝でもあり、大垣駅を中心に、東海道線、樽見鉄道、養老鉄道が延びている。

南側、大垣城(跡)を中心に、丸く市街が形成されている。そう大きくはなく、歩いても大垣城まで7,8分、芭蕉関連の名所まで20分ほどの町並みである。

駅前から南にむかうと水路があって、西が望める。建物ごしであるが、伊吹山がそびえている。芭蕉の時代は平屋ばかりだろうから、もっとよく見えただろう。

さらに南にむかうと大垣城がある。天守は廃城令による破却をまぬがれ、旧国宝だったようだが、惜しくも空襲により焼失している。現状は1959年(なんと当職と同年である。)再建の鉄筋コンクリートである。

友人が日本百名城に挑戦している。が、上記事情により、大垣城は選に漏れている。

同城の旧外堀とかで、水門川がぐるりと取り巻いている。駅から南にむかえば必ず水門川にぶつかるので、大垣で道に迷うことはないと思う。

水門川沿いに「四季の道」という遊歩道がつくられている。またの名をミニ奥の細道といい、芭蕉の句碑が順に並んでいる。

終点は「奥の細道むすびの地」となっている。そこへ向けて、芭蕉の句が順に並んでいて、・・・

 よもすがら秋風吹くや裏の山(加賀市)

 物書きて扇引きさくなごりかな(福井)

 月清し遊行の持てる砂の上(敦賀)

 名月や北国日和定めなき(同)

 波の間や小貝にまじる萩の塵(種の浜)

 寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋(同)

と、だんだんとむすびの地に近づく趣向になっている。じつに感動的。

途中、八幡神社があり、入ってすぐ右に冬ごもり塚という句碑がある。

 折々に伊吹をみては冬ごもり

市役所のむこう側には竹島会館があり、伊吹塚がある。

 其のままよ月もたのまじ伊吹山

大垣と伊吹山の景とは切っても切り離せないものなのだろう。筑紫地区と天拝山、四王寺山、宝満山の景とが切っても切り離せないもののように。

「奥の細道むすびの地」は、木因の家の跡。やはり北村季吟の門下で、芭蕉とは兄弟弟子の関係にあった。野ざらし紀行の途中でも、芭蕉は木因を訪れている。

木因の紹介により、大垣には芭蕉のお弟子さんが多かった。芭蕉がおくのほそ道のむすびの地を大垣としたのは、そのためである。

本文中にも、露通、曽良、越人、如行、前川子・荊口父子ら、お弟子さんの名がならぶ。芭蕉はお弟子さんに囲まれているときが一番幸せだったのだ。

先のつづきで、むすびの句碑である蛤塚がある。

 蛤のふたみに別れ行く秋ぞ

江戸時代には河川交通もあり、ここには河港があった。川をはさんで向かい側には住吉燈台があり、川には舟が浮かべられている。芭蕉はここから伊勢の二見浦へ、あらたな旅に出立したのである。

拙者も明日から、能郷白山、位山へ旅立たなければならない。                                  

2021年10月27日水曜日

週末の旅


  先週末はまた旅にでた。その反芻。

宣言が解除された。でもまたいつ宣言がだされるかわからない。冬にはまた感染者数がふえるだろう。いまのうちだ。

こんかいはどちらも日本二百名山の、能郷白山と位山に登った。当初は御嶽山と位山の計画だったが、御嶽山は10月中旬までとのことだったので。

金曜日の仕事を午前中で切り上げて、JR二日市駅へむかった。キップ売り場には女性が二人並んでいた。

聞くともなく聞いていると、先頭の女性のキップの確認をしている。11月○日・・・白河、一関、・・・金沢・・・。どうも東北から北陸をめぐる1週間くらいの旅らしい。いいなぁ、うらやましいなぁ。やはりコロナ明けだなぁ。

そのときはよく分からなかったが、あとでよく考えると、おくのほそ道の旅なのかもしれない。30代くらいだったので、単なる旅行かもしれないが。

きょうは大垣までである。名古屋に泊まるか迷ったが、おくのほそ道の旅、大垣は未踏であった。それで、あえて大垣に泊まり、観光することにした。

新幹線のぞみ車内はすいている。新大阪をすぎ、左手から山﨑、天王山が迫ってくる。寸暇、秀吉と光秀のたたかいに思いをはせる。兵どもが夢のあとだ。

京都でおりる。北東に比叡山、北西に高雄のあたりの山がみえている。紅葉は来週、再来週あたりか。まもなく、こだまがやってきた。これに乗り換え、鴨川をわたる。

山科の盆地をへて、逢坂山のトンネルを通過。小野小町、深草少将、蝉丸にいそがしく思いをはせる。

大津、琵琶湖畔がひろびろと開ける。しばらく行くと、左手に安土城跡。信長の偉業に思いをはせる。

またしばらく行くと、小丘のうえに彦根城。ひこにゃんは見えない。あたりまえだ。トミーの実家も見えない。見えるのかもしれないが、どこらへんにあるか知らない。

しばし佐和山城跡に視界を遮られる、石田三成の居城跡だ。

と思うまに米原。在来線プラットホームへ。北側から特急しらさぎが入ってくる。懐かしい。子どもが小松で働いていたころ、よく見かけた。金沢からの特急は、しらさぎとサンダーバードの2種類がはしっている。名古屋方面へむかうのがしらさぎ、大阪方面へむかうのがサンダーバードだ。

特急をやりすごして、新快速に乗る。高校生がいっぱいだ。開けていた近江の地がすぼまっていく。醒ヶ井、近江長岡・・・。左手に伊吹山が大きくなる。

伊吹山は、西側が削られて醜くなっている。だからシロウトにもすぐわかる。新幹線に乗って京都から名古屋へいく際には、いちど見つけてくだされ。

伊吹山が削られているのは、石灰岩を採掘するから。セメントの原料になるためだ。日本百名山である伊吹山が醜くなるのはこまるが、じゃ、セメントは要らないのかと問われると答えに窮する。

石灰岩の原料はサンゴ礁である。つまり、むかしは太平洋の海中にあったわけだ。それが太平洋プレートに乗って、遠路はるばる運ばれてきた。そして大陸プレートにこそぎとられて日本列島の一部になったわけだ。などと、見てきたようなことを想起する。

と思うまにトンネルを通過し、関ヶ原にでる。ここでもしばし、石田三成と徳川家康の天下分け目のたたかいに思いをはせる。

濃尾平野が開ける、とても大きな平野だ、平野にはいくつもの大河が流れている。垂井、荒尾、そして大垣だ。こんなことを書くと、鉄ちゃんと誤解されそうだ。山歩きをする山ちゃんは、不可避的に鉄ちゃんの仲間入りをすることがある。山歩きをするためには、ローカル線で山奥にわけいる必要があるから。

大垣駅の陸橋から西をのぞむ。伊吹山が個性的で美しい。たくさんの山のなかで、ひときわ目立つ存在だ。緑に覆われず、カクカクしている。石灰岩は植物が育ちにくく、浸食に強いためである。

駅舎を1階におりると、世界の山ちゃんが誘っている。

                                    (つづく)

2021年9月1日水曜日

エンディング、あらたなる旅へ

 


 露通もこの港まで出で迎ひて、美濃の国へと伴ふ。駒に助けられて大垣の庄に入れば、曽良も伊勢より来たり合ひ、越人も馬を飛ばせて、如行が家に入り集まる。前川子・荊口父子、その外親しき人々、日夜訪ひて、蘇生の者に会ふがごとく、かつ喜びかついたはる。旅のものうさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮拝まんと、また舟に乗りて、

 蛤(はまぐり)のふたみに別れ行く秋ぞ

 旧暦三月二十七日江戸深川を出発した芭蕉は、八月下旬ころ美濃大垣に到着しました。わがブログも新暦3月26日にスタートし、9月1日ここまで到達しました。ようやくエンディングです。ふう。

長旅を終えた芭蕉をたたえ、ねぎらうためお弟子さんたちが集まってきます。この場面は、江戸を出発する際、お弟子さんたちが集まり、長旅を心配し見送る様子と対称をなしています。句もそうです。

 行く春や鳥啼き魚の目は涙

かたや行く春の句、かたや行く秋の句。

芭蕉はお弟子さんたちに囲まれてワイワイするのが大好きだったようですが、それにとどまることを自分に許さない。さらなる旅に出かけます。お弟子さんたちとの再度の別れ。別れの最終エピソードです。

行き先は伊勢。思えば、市振あたりからあちこちに伊勢が顔をだしていました。市振の遊女たちが目指していたのは伊勢でした。曽良も先に伊勢をめざしました。源平北国の戦のあとで還亡の話になったのも、朝廷が伊勢神宮に行幸することに決めたからでした。

その平家物語によれば、伊勢神宮とはこういうところです。

 大神宮は、高間原より天くだらせ給ひしを、崇神天皇の御宇廿五年三月に、大和国笠縫の里より、伊勢国度会の郡、五十鈴の河上、したつ石根に大宮柱ふとしきたて祝そめたてまつってよりこのかた、日本六十余州、三千七百五十余社の大小の神祇・冥道のなかには無双也。

伊勢神宮は、白木でできているため、20年ごとに社殿を造り替えて神座を遷します。おくのほそ道の旅を終えた芭蕉が伊勢神宮の式年遷宮に旅立つのは心憎いばかりの構成です。

芭蕉が元禄2年におくのほそ道の旅を行ったのは、この年が西行没後500年にあたっていたからです。ですが、なんと、この年9月10日(内宮)、9月13日(外宮)に神宮の式年遷宮が予定されてもいました。そのため6日にはバタバタと出発することになったわけです。

去来は「故翁奥羽の行脚より都へ越えたまひける、当門のはい諧すでに一変す。」と述べています(『俳諧問答』)。蕉風がおくのほそ道の旅をへて革新されたというのです。式年遷宮は、あたらしい句風を打ち立てる蕉風のあり方を象徴しているでしょう。

蛤は伊勢の名物。「その手は桑名の焼き蛤」という言葉があるので、桑名が蛤を名物としていることは確実。桑名は伊勢湾の北部に位置し同じ海に面しているので、伊勢でも蛤を名物としていても不思議はないでしょう。蛤の句は、伊勢に対する挨拶句でもあるわけです。

写真は2014年2月京都にいた三女と二泊三日で奈良・伊勢を旅したときのものです。娘は海鮮がだいすきなので海鮮セットを注文しました。でもホタテやアワビの写真はありましたがハマグリの写真は見つかりませんでした。ハマグリは春の季語だからでしょうか。

ま、でもここでは、たとえハマグリでも、蓋と身に別れればOKです。「ふたみに別れいく」というのは、ハマグリが蓋と身に別れるというのと二見が浦を見にいくのシャレになっていればよいからです。

芭蕉の句であるからには決してダジャレではありません。季語が2つありますが、芭蕉の句であるからにはよいのだと思います。

この句は西行の歌を踏まえてもいます。

 今ぞ知る二見の浦の蛤を 貝合とておほふなりけり 西行

ひとときも停滞することを自分に許さず、常に変転のなかに自己革新をめざした芭蕉の姿勢にならい、今後とも新しいことに挑戦し、自己革新を続けていきたいと思います、はい。

長い間この旅におつきあいいただき、激励いただいたみなさま、ありがとうございました。